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拷問王!冤罪事件ねつ造機!?魔女狩り警察官?「紅林 麻雄」特に、袴田事件は50年以上投獄されたまま裁判が現在でも続いている。


【ゆっくり歴史解説】黒歴史上人物「紅林麻雄」

拷問王!冤罪事件ねつ造機!?
魔女狩り警察官?「紅林 麻雄」
特に、
袴田事件は50年以上投獄されたまま裁判が現在でも続いている。
他には幸浦事件 二俣事件 小島事件  島田事件・・などなど。

ちなみに・・
この最強のメラさんのゆっくり動画の着眼点や推察力に加え
編集の解りやすさが、ゆるきゃら動画と思えないほどに本格的です。



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wikiペディアより引用

紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年 - 1963年9月)は、日本の警察官。静岡県警察部から国家地方警察静岡県本部を経て静岡県警察に属した。最終階級は警部。担当した事件で多くの冤罪を作ったことで知られる。

人物
現在の静岡県藤枝市出身。国家地方警察静岡県本部刑事課員として、1941年(昭和16年)8月から翌1942年(昭和17年)8月にかけて起きた浜松連続殺人事件などの数々の事件を解決した名刑事であると言われ、多くの表彰を受けた。

その一方で、自身が担当した幸浦事件(死刑判決の後、無罪)、二俣事件(死刑判決の後、無罪)、小島事件(無期懲役判決の後、無罪)、島田事件(死刑判決の後、無罪)の各事件で、無実の者から拷問で自白を引き出し、証拠を捏造して、数々の冤罪を作ったとして批判された。

取調べにおいて、拷問とそれによって得た自白を、いかにして合法とするかを考案したとして「拷問王」と評された。紅林は様々な拷問の手法を考案したが、実行には直接関与せず、部下に指示を出していた。また二俣事件における山崎兵八の書籍においては、真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。

上記4事件中、島田事件を除く3事件が一審・二審の有罪判決の後に無罪となり、島田事件も最高裁での死刑判決確定後の再審で無罪が確定した。幸浦事件・二俣事件の有罪判決破棄差し戻し時点で、当時御殿場警察署次席警部の地位にあった紅林は、非難を浴びた県警上層部によって、吉原警察署駅前派出所へ左遷された。しかも交通巡視員待遇という、実質的な二階級降任であった。

世間や警察内部から非難され、精神的に疲弊しきっていたが、1963年7月、幸浦事件の被告人に無罪判決が確定したことを機に気力がつきて警察を引退。同年9月に脳出血により急死した。

紅林捜査法
前述のように、紅林は拷問による尋問、自白の強要、自己の先入観に合致させた供述調書の捏造のような捜査方法の常習者であった。またアリバイが出てきそうになった場合は、犯行現場の止まった時計の針を動かしたトリックを自白させ、被疑者が推理マニアであることや被疑者の周辺で時計の針を動かすトリックがある探偵映画が上映されていることなどの傍証を積み重ねる手法で、アリバイを否定しようとした。

これらについて二俣事件の裁判では同僚の捜査員である山崎兵八が「県警(島田事件のみ、これ以前は国警静岡県本部)の組織自体が拷問による自白強要を容認または放置する傾向があった」と証言。県警当局は山崎を偽証罪で逮捕(ただし「妄想性痴呆症(妄想型統合失調症の旧称)」として不起訴処分)したうえ懲戒免職処分にした。また幸浦事件では自分達が先に被害者の遺体が埋められている場所を探知しておきながら、被疑者に自白させた後に発見したようにして秘密の暴露を偽装した疑惑がある他、主犯とされた男性は拷問による為か持病(てんかん)が悪化しわずか34歳で上告中に死亡した。

紅林捜査法に見られるような強制、拷問又は脅迫によるなど任意性に疑いのある自白調書は、刑事訴訟法322条1項及び319条1項により証拠とすることができない。小島事件では、実際に紅林捜査法に最高裁の判断が下された。最高裁判決では被告人(当時は被疑者)が取調べ中に留置場に戻ってくるたびに赤チン(傷薬)を塗るなど治療を受けていたという証言などが認定され、被告人が主張する程度の過酷な拷問があったかについては疑義を呈しつつも、紅林主導の下で作成された自白調書の任意性が否定され、被告人に有罪を言い渡した原判決が破棄差戻し(後に無罪確定)された[1]。

参考文献
佐藤友之、真壁旲 『冤罪の戦後史』 図書出版社、1981年。ISBN 4809981916。
浜松事件での紅林の功績は偽りのもので、実際は当時の県警刑事課長の怪我の功名によるものだったとある。その後、紅林はしくじって免職しかけるが、浜松事件解決の「功労者」として、後継の刑事課長によって県警に引き上げられたという。 以上、二俣事件で被告側の証人になった、元刑事の南部清松の談。南部は島田事件でも冤罪を証明する活動をしている。
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』 東京法経学院出版、2002年。ISBN 4808940035。
管賀江留郎 『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』 洋泉社、2016年。ISBN 9784800307453。
浜松事件と二俣事件を中心に紅林の経歴を多数の資料に基づいて記述しており、伝記的事実から人物像を浮かび上がらせている。

関連項目
熊本典道 - 袴田事件の一審静岡地裁で死刑判決に関わった裁判官。良心の呵責から裁判官を依願退職し、事件の冤罪を訴えている。

袴田事件(はかまだじけん)とは、1966年(昭和41年)6月30日に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定していた袴田巌元被告人が判決の冤罪を訴え、2014年3月27日に死刑及び拘置の執行停止並びに裁判の再審を命じる判決が(即時抗告審での審理中のため未確定)なされたが、2018年6月11日に高裁で再審請求が棄却された事件。日本弁護士連合会が支援する再審事件である。

経過
1966年6月30日 - 「有限会社王こがね味噌橋本藤作商店」(「株式会社王こがね味噌」を経て1972年から株式会社富士見物産)専務の自宅が放火された。焼跡から専務(41歳)、妻(38歳)、次女(17歳)、長男(14歳)の計4人の他殺死体が発見される。一家の中では別棟に寝ていた19歳の長女(一家から勘当されて家を出ていたが、当日は久しぶりに家に戻っていた)が唯一生き残った。
1966年7月4日 - 静岡県清水警察署が味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、当時「王こがね味噌」の従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収。
1966年8月18日 - 静岡県警察が袴田を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕。
1966年8月19日 - 取調べ(3回 計10時間30分)
1966年8月20日 - 取調べ(3回 計7時間23分)
1966年8月21日 - 取調べ(2回 計6時間5分)
1966年8月22日 - 取調べ(6回 計12時間)
1966年8月23日 - 取調べ(3回 計12時間50分)
1966年8月24日 - 取調べ(3回 計12時間7分)
1966年8月25日 - 取調べ(4回 計12時間7分)
1966年8月26日 - 取調べ(3回 計12時間26分)
1966年8月27日 - 取調べ(3回 計13時間17分)
1966年8月28日 - 取調べ(3回 計12時間32分)
1966年8月29日 - 取調べ(5回 計7時間19分)
1966年8月30日 - 取調べ(4回 計12時間47分)
1966年8月31日 - 取調べ(3回 計13時間18分)
1966年9月1日 - 取調べ(3回 計13時間18分)
1966年9月2日 - 取調べ(4回 計9時間15分)
1966年9月3日 - 取調べ(2回 計9時間50分)
1966年9月4日 - 取調べ(3回 計16時間20分)
1966年9月5日 - 取調べ(3回 計12時間50分)
1966年9月6日 - 取調べ(3回 計14時間40分)。犯行を頑強に否認していた袴田が勾留期限3日前に一転自白。
1966年9月9日 - 静岡地検が強盗殺人罪、放火罪、窃盗罪で起訴。
1966年11月15日 - 静岡地裁の第1回公判で袴田が起訴事実を全面否認。以後一貫して無実を主張。
1967年8月31日 - 味噌製造工場の味噌タンク内から血染めの「5点の衣類」が発見される。
1968年9月11日 - 静岡地裁が死刑判決[1]。
1976年5月18日 - 東京高裁が控訴を棄却。
1980年11月19日 - 最高裁が上告を棄却[2]。
1980年11月28日 - 判決訂正申立。
1980年12月12日 - 最高裁が判決訂正申立棄却決定送達。死刑確定。
1981年4月20日 - 弁護側が再審請求。
1994年8月9日 - 静岡地裁が再審請求棄却(決定書日付は8月8日)。
1994年8月12日 - 弁護側が即時抗告。
2004年8月27日 - 東京高裁が即時抗告棄却(決定書日付は8月26日)。
2004年9月1日 - 弁護側が最高裁に特別抗告。
2008年3月24日 - 最高裁で棄却。第一次再審請求終了。
2008年4月25日 - 弁護側が静岡地裁に第二次再審請求。
2010年4月20日 - 衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」設立総会を開催。
2010年8月24日 - 袴田巌死刑囚救援議員連盟が「袴田死刑囚は心神喪失状態にある」として、法務大臣千葉景子に刑の執行停止を要請した[3]。
2011年1月27日 - 日本弁護士連合会が、妄想性障害等を理由として、刑の執行停止と医療機関での治療を受けさせるよう法務省に要請した[4]。
2011年2月11日 - 法務大臣千葉景子の指示の下、法務省は袴田を含む複数の死刑囚を対象に精神鑑定などを実施したが、袴田については「執行停止の必要性は認められない」との結論に達していたことが明らかになった。
2011年8月 - 第二次再審請求審において、静岡地裁は事件当日にはいていたとされるズボンの他、5点の衣類の再鑑定をすることを決定。
2014年3月27日 - 静岡地裁(村山浩昭裁判長)が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定した。袴田は同日午後に東京拘置所から釈放された[5]。静岡地検は東京高裁に拘置停止について抗告を申し立てるが、高裁は28日、拘置停止決定を支持し抗告を棄却。31日、静岡地方検察庁が再審開始を認めた静岡地裁の決定を不服として即時抗告[6]。
2014年3月28日 - 午後6時頃、生き残っていた被害者一家の長女が亡くなっているのが自宅で発見された。満67歳没[7]。
2014年8月5日 - 抗告審理で、弁護士側の証拠開示要求に対して、静岡地方検察庁が一審当時から「存在しない」と主張し続けて来た、袴田有罪の証拠「5点の衣類の写真」のネガフィルムが、実際には静岡県警察で保管されていた事が判明[8]。
2018年6月11日 - 即時抗告審で、東京高裁は、静岡地裁決定を取り消し、再審請求を棄却した[9]。
元被告人の現況
袴田は30歳で逮捕されて以来2014年3月27日まで45年以上にわたり東京拘置所に収監拘束された(これは「世界最長収監」としてギネス世界記録に一時認定されていた[10])。

死刑確定後は、精神に異常を来しはじめ、親族・弁護団との面会にも応じない期間が長く続いた。その後は面会には応じるものの、拘禁反応の影響による不可解な発言が多く、特に事件や再審準備などの裁判の話題については全くコミュニケーションが取れなくなっていた。このため、2009年3月2日より、袴田の姉が保佐人となっている。

袴田は近年、獄中にて拘禁反応に加えて糖尿病も患っている事が判明している。なお、2014年3月27日の釈放後、袴田は都内の病院に入院していた際、拘禁反応については回復の傾向があり、糖尿病も深刻な状況ではないと診断された[11]。同年5月27日、48年ぶりに故郷の静岡県浜松市に帰り、市内の病院に転院した[12]。

裁判の主な争点
自白は強要されたものか。
任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、そのうちの2通の調書と、同日に取られ唯一証拠採用された検察官調書には任意性があるのかなど。
信用性に関する争点 : 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない点など。
凶器とされているくり小刀で犯行は可能か。
逃走ルートとされた留め金のかかったままの裏木戸からの逃走は可能か。また、可能だとして警察の示した写真が捏造されたものかどうか。
犯行着衣とされた「5点の衣類」は犯人である証拠か、警察の捏造か。弁護側は「サイズから見て被告人の着用は不可能」、検察は「1年間近く、味噌づけになってサイズが縮んだ」と主張している。2011年2月、弁護側により、ズボンについていたタグのアルファベットコードはサイズではなく色を示しているとして、警察が誤認もしくは故意に事実を無視した疑いが指摘された[13][14]。袴田の実家を家宅捜査した際に犯行着衣と同じ共布を発見。これが犯行を裏付ける証拠として採用された。2010年9月に検察が一部開示した証拠を弁護側が検証したところ、共布発見の8日前と6日後の2度に渡り、捜査員がズボン製造元から同じ生地のサンプルを入手していたことが判明。弁護側はこの不自然な行動に「実家からの発見」を偽造した可能性があるとして2枚のサンプルの開示を要求、「検察側が示せないなら捏造の根拠になる」と主張している。
取調べ・拷問
袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で1日平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。

睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。

これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた事で知られる紅林麻雄警部の薫陶を受けた者たちが関わったとされている。

再審について
袴田はすでに死刑判決を受けているが、同時に弁護人によって再審請求もしている。この再審とは、日本の三審制の裁判制度の中で、「重大な証拠」が新たに発見された場合などに、もう一度裁判をやり直すといった制度である。 しかし、上述した通り日本は三審制を導入しており、証拠が新たに出てきたからといってその都度再審をしていては三審制の本来の意図を侵害してしまうため、事件の真相を根本的に覆すような「重大な証拠」が新たに発見されたとしても、再審はなかなか認められるものではない。 特に日本は再審制度のある国の中でも、裁判所が再審を認める確率が突出して低く、日本全体を見ても年平均わずか2件程度で、日本の再審制度は俗に「開かずの扉」とも呼ばれているほどである。

第二次再審請求
袴田は2008年4月に、2回目の再審請求をしている。その後、足利事件布川事件などにおいて、かねてから冤罪が疑われていた判決確定後の裁判に対し、再審が認められて立て続けに冤罪が確定した。これを機に、国民の冤罪に対する関心は高まり、検察は2013年3月、4月、7月と続いて当時の一部の証拠を開示した。また、同年11月には、事件当時、袴田の同僚が袴田のアリバイを供述していたにも関わらず、検察は袴田が犯人であるかのような供述に捏造していた事実が発覚し、加えて12月には被害者が当時着用していた5点の衣類に付着している血液が袴田のものではないことも、最新技術を使った弁護団のDNA鑑定によって明らかとなった。これらは裁判が開始して以来最大の変動でもあり、「重大な証拠」として再審が認められる可能性を大きく持った。2013年12月に、メディアでは「2014年の春頃には再審の可否判断がされるだろう」との予想が新聞各紙にわたって掲載、同時に各ニュース番組でも報道された。

2014年3月27日、静岡地裁(刑事第1部、村山浩昭裁判長・大村陽一裁判官・満田智彦裁判官)で再審が認められ、さらに死刑と拘置の執行の停止を決定、袴田は釈放された。これに対し静岡地検は東京高裁に即時抗告した。

2018年6月11日、東京高裁は静岡地裁の決定に対し「地裁が認めたDNA鑑定の結果には科学的疑問が存在し、証拠として信用できない」として再審請求を棄却。弁護側は最高裁に特別抗告する見込みで、再審開始の判断は最高裁に委ねられることとなった。なお、死刑と拘置の執行停止については「袴田の年齢や生活状況等を鑑み、釈放の取り消しが相当とは言い難い」として維持している[15]。

検察側の証拠捏造疑惑
第2次請求審では、犯人が着ていたとされたシャツに付いた血液のDNA型が袴田元被告と一致しないとの鑑定結果が出た。村山裁判長は決定理由で、DNA鑑定結果を「無罪を言い渡すべき明らかな証拠に該当する」と評価。事件の1年余り後に発見され、有罪の最有力証拠とされたシャツなどの衣類について「捜査機関によって捏造された疑いのある証拠によって有罪とされ、死刑の恐怖の下で拘束されてきた」と指摘した[16]。

毎日新聞(荒木涼子)は、このことに加え、以下のような検察側の証拠捏造の疑惑を示唆した。1970年代にあった控訴審での着用実験で、(使用していたとされる)ズボンが袴田には細すぎて履くことができなかった。だが、検察側は「タグの『B』の文字は84センチの『B4』サイズの意」などと言い張り、確定判決でもその通り認定された。しかし、これは捏造とも言える主張だった。「B」についてズボン製造業者が「色を示す」と説明した調書の存在が、今回の証拠開示で明らかになった[17]。

裁判の問題点
最高検察庁の検事として袴田事件の審理を担当した、竹村照雄は、地検に眠っている証拠を「もう一回分析することはしなかった。その前の段階で有罪だと思っているから。 改めて無罪のこと(証拠)をほじくることはない」と述べた。証拠の全体像を知るのは検察側だけで、何を裁判に出すかは検察の裁量に任されており、今の裁判員が始まる前の制度では、検事、検察官は、被告人を有罪するのに最も適切な証拠だけ出せばよく、それ以外の証拠は一切見せなくていい、という問題点が指摘されている[18]。

NHK解説委員の橋本淳は、「(死刑判決を書いた裁判官の)熊本さんは7年前、守秘義務を破って異例の告白をしました。この中では、警察の厳しい取り調べで、袴田さんがうその自白を強いられたと見ていたこと、無罪にしようとしたが、ほかの裁判官を説得できず、心ならずも死刑判決を書いたことを明らかにしました」と指摘した[19]。

週刊現代は、袴田事件裁判にかかわった裁判官・刑事・検事を実名であげ、その裁判の不当さを批判した[20]。裁判所が警察・検察とグルになって、袴田さんを殺人犯に仕立て上げた構図が浮かび上がる、と表現している。

2018年の東京高裁の再審請求を棄却について、葛野尋之一橋大学法学部教授は、「東京高裁は、有罪判決に合理的な疑いが残るかどうかを判断すべきなのに、再審請求で出された「新証拠」の個々の信用性を検討しており、問題がある」とした[21]。

支援の動き
1979年 - ルポライターの高杉晋吾が事件の冤罪性を指摘した記事を『現代の眼』に掲載し、死刑確定後に支援組織「無実のプロボクサー袴田巌救う会」(現「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巖さんを救う会」)を設立する。
1981年から日本弁護士連合会(日弁連)が人権擁護委員会内に「袴田事件委員会」を設置し弁護団を支援する。
1991年3月11日 - 日本プロボクシング協会(JPBA)の原田政彦会長(=ファイティング原田)が、後楽園ホールのリング上から再審開始を訴え、袴田支援を正式に表明する。
2006年5月 - 東日本ボクシング協会が会長輪島功一を委員長、理事新田渉世を実行委員長とする「袴田巌再審支援委員会」を設立する。同委員会はボクシングの試合会場(後楽園ホールなど)で袴田の親族、弁護団所属の弁護士や救援会関係者らとともにリング上から早期再審開始を訴えたほか、東京拘置所への面会やボクシング雑誌の差入れなどを行った。
2006年11月20日 - 輪島を始め5名の元ボクシング世界チャンピオンらが、早期再審開始を訴える約500筆の要請書を最高裁に提出する。
2007年2月 - 一審静岡地裁で死刑判決に関わった熊本典道が、「彼は無罪だと確信したが裁判長ともう一人の陪席判事が有罪と判断、合議の結果1対2で死刑判決が決まった(下級裁判所の合議審では各裁判官の個別意見を書くことは認められず、判決文は形式上、全会一致の体裁で作成しなければならない)。しかも判決文執筆の当番は慣例により自分だった」と告白。袴田の姉に謝罪し再審請求支援を表明する。なお、熊本がこれらの告白を行ったのは、熊本に死刑判決の判決文の作成を指示した当時の裁判長ともう一人の陪席判事が死亡した後であった。また、熊本自身は判決言い渡しの7ヵ月後、良心の呵責に耐えかねて裁判官を辞職し、弁護士に転職した旨を語っている。
2007年6月25日 - 熊本が袴田の再審を求める上申書を最高裁に提出。
2008年1月24日 - JPBA、後楽園ホールで支援チャリティーイベント「Free Hakamada Now!」を開催[22]。日本ボクシングコミッションが袴田に対し名誉ライセンスを贈呈する。
2008年 - 人権団体「拷問の廃止を目指して行動するキリスト者」(ACAF、Aktion der Christen fuer die Abschaffung der Folter)が、袴田のための署名活動を国際的に展開する。また死刑制度そのものに反対するアムネスティ・インターナショナルも釈放を求めている。袴田がカトリックの洗礼を獄中で受けたために、日本ではカトリックの司教などが再審の署名集めに尽力してきた。
2011年1月27日 - 日弁連江田五月法相に対して袴田が長年の拘禁で妄想性障害にあり、刑の執行停止が認められる心神喪失の状態だと判断し刑の執行停止と、精神疾患の治療を指示するよう勧告した[23]。
2011年3月10日 - 袴田が「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス世界記録に認定された。認定期間は、第一審の静岡地裁で死刑判決を受けた1968年9月11日から2010年1月1日までの42年間である。死刑確定後の拘置期間としてはマルヨ無線事件・名張毒ぶどう酒事件・ピアノ騒音殺人事件の死刑囚の方が長いが、第一審の死刑判決から「死刑囚として拘束」され続けているとして、袴田が最長と認定された[24]。
2012年5月19日 - JPBA、後楽園ホールのリングサイドに袴田の早期再審開始と釈放を祈り「袴田シート」2席を設置。この日は「ボクシングの日」でもある。
2014年1月 - 世界ボクシング評議会名誉王座を認定し、釈放された場合はチャンピオンベルトを授けることを決定[25]。14日、静岡地裁に7万4千筆、静岡地方検察庁に4万2千筆の、速やかな再審開始を求める署名(ビタリ・クリチコも賛同)が提出され、八重樫東も立ち会う[26]。
2014年4月 - 週刊現代が当時の捜査関係者(捜査員、検察官)と、死刑判決を出しまた上訴を棄却した裁判官全員の実名を公表。依願退官した熊本以外の全員が功成り名遂げ、叙勲された者もいる[27]。3日、NHKテレビ『クローズアップ現代』が静岡県警察静岡地検による袴田有利な証拠の隠蔽・捏造問題を採り上げる[14]。木谷明が解説。
袴田巌死刑囚救援議員連盟
国会では、衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」が発足し、2010年4月20日に設立総会を開いた[28]。民主党自由民主党公明党国民新党社会民主党新党大地日本共産党みんなの党、等に所属する議員が発起人となり、総勢57名の超党派議員が参加[29]、代表には牧野聖修民主党衆議院議員、事務局長には鈴木宗男新党大地衆議院議員が就任した。同議員連盟発足について牧野は「足利事件で無罪が明らかになるなど冤罪への関心が高まっており、袴田さんの冤罪を信じる議員が集まった。今後は法務大臣に死刑執行の停止や一刻も早い再審の開始を求めたい」と述べている[30]。同議員連盟は、設立総会において、冤罪の可能性とともに、死刑執行への恐怖が長期間続いたため袴田は精神が不安定になっていることなどを指摘し、今後、法務大臣の職権による死刑執行の停止や、医療などの処遇改善を求めることを決めている[31]。 同議員連盟代表の牧野は、強い拘禁反応によって心身喪失状態にある袴田に対し刑事訴訟法479条(死刑執行の停止: 死刑を言い渡されたものが心神喪失にあるときは、法務大臣に命令によって執行を停止することができる)に基づき、法務大臣に対し職務権限による死刑の停止と、速やかに適切な治療を求めるとともに、再審の道を開くべく追求することを表明している[32]。また、担当弁護士は、国際法規に照らしても拘禁反応や糖尿病を放置している状況は人権侵害だと述べている[29]。 また同議員連盟で、弁護団から、死刑確定後30年近く経過している現状は拷問等禁止条約などに違反している疑いがあるため、日弁連に対し人権救済の申し立てを行なった、などの報告があった[32]。

その後鈴木が失職、牧野が落選し、他の参加議員にも変動があったため、2014年3月、袴田の再審決定・釈放を前に50人の超党派の国会議員が再結集し、議員連盟を再構築した。役員は以下の通り(政党名は2014年3月当時)。

事務局次長 鈴木貴子(新党大地衆議院議員
生方幸夫・杉本和巳・畑浩治は2014年12月の第47回衆議院議員総選挙にて落選。
映画
後藤忠政の製作で『BOX 袴田事件 命とは』(高橋伴明監督・2010年)が公開された。2016年2月、ドキュメンタリー映画袴田巌 ―夢の間の世の中―』公開決定。

ギネス認定
袴田は、「世界で最も長く収監されている死刑囚」として、75歳の誕生日である2011年3月10日付でギネス世界記録で認定されたが[33]、非人道的行為に対する認定行為であったことから2014年現在は取り消されている。認定の対象期間は、静岡地裁で死刑判決を受けた一審判決の1968年9月11日から2010年1月1日までの42年間である。

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災害時はご覧ください。


生活情報・札幌

生活情報・道央


北海道地震でインフラが麻痺した恐さを知った中で、
インフラに関する連絡先等を
今後も記事に載せておきます。
最悪・・皆さんは自力で調べるとは思いますが、念の為に・・
このまま、インフラに関するホームページや連絡先を載せておきます。

電気・ガス・水道・航空会社・列車・道内のバス会社・高速道路に関する
会社のホームページと電話番号を出来るだけ!!まとめました。





でわでわ。



また、宜しくお願いします。
Have a nice day!!









☆★☆★☆☆★☆★☆☆
 
皆様へ・・
いつもいつも、、こんな話につきあって頂いて
有難うございますm(_ _)m
そして・・
ご観覧してくれる皆様もどうもです。
その中には、生きている人達だけではないこともあります。笑w
 

でわ・・
 
 ☆しりとりゲーム続行です!!笑
 ペテルギウス版
 


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最近結構、ここに居ます。笑



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