霊界大師 眞魚.らすかる国王MAO の26世紀先の未来まで残す。TIME CAPSULE BLOG2011年~

26世紀先の未来まで残す~『タイムカプセル BLOG』これが、僕の人生を懸けた霊能力の活用法です。

これから霊界に帰る、市原悦子さん、守護霊御一行様方へ・・霊界及び来世でのご活躍と、一人の市民として、心よりご冥福をお祈りいたします。そして、市原さんの真意を右も左も政治利用しないでやってくださいね。


野坂昭如 戦争童話集 凧になったお母さん 市原悦子

これから霊界に帰る、市原悦子さん、
守護霊御一行様方へ・・
霊界及び来世でのご活躍と、
一人の市民として、
心よりご冥福をお祈りいたします。

そして、市原さんの真意を右も左も
政治利用しないでやってくださいね。
戦争の実体験を後世に引き継ぐ為に
女優という生き方を選んだ、使命だった。
市原さんの生き方に、心から敬服致します。

霊界のインターネットで、
生前の書物や動画が霊界に残っていれば、
観覧したり、買いあさって?
自分の作品なのに変な話ですが・・
来世は現世と戸籍が同じという事には
200年くらい生きない限りはありえませんので
ご容赦ください。
そういった中で、
生前縁の作品の観覧や縁の場所に
出向いたりすると、来世の無意識行動になります。

上手くいけば、
前世となる現世に目が止まるかもしれません。
wikiペディアの概要程度になりますが、
ささやかながら、ここにも記載させて頂きます。

守護霊御一行様からも、そうお伝えください。
僕の守護霊御一行様越しの伝言になりますがね。

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wikiペディアより。

市原 悦子(いちはら えつこ、1936年1月24日 - 2019年1月12日[82歳没])は、日本の女優、声優。本名、塩見 悦子(しおみ えつこ)。

千葉県千葉市出身。生前はワンダー・プロダクション所属。
身長160cm、体重53kg。夫は舞台演出家の塩見哲。

来歴
千葉県千葉市出身。父親は銀行員だった。千葉市立末広中学校を卒業後、千葉県立千葉第一高等学校に進学する。演劇部で活動し、伊藤貞助作の『村一番の大欅』で県大会に出場して個人演技賞を受賞した[3]。

高校卒業後、早稲田大学第二文学部演劇専修に入学。父親の薦めで富士銀行に就職が決まっていたが演劇への思いが断ちがたく[3]、俳優座養成所に6期生として入所する。同期には近藤洋介、宮部昭夫、川口敦子、大山のぶ代、阿部百合子、阿部六郎、佐伯赫哉、山本清がいた[3]。1957年に俳優座に入団し、『りこうなお嫁さん』でデビューする。同年に雑誌『新劇』の新人推賞を受賞し、1959年に『千鳥』で芸術祭奨励賞を受ける。さらに1963年には新劇演劇賞、1964年にゴールデン・アロー賞新人賞に輝き、新劇女優として高い評価を受ける。

私生活では、俳優座養成所の同期の演出家・塩見哲と1961年に結婚。2度の流産などで子宝に恵まれなかったが、おしどり夫婦として知られた[4]。

1971年10月に夫の塩見とともに俳優座を退団し、1972年に番衆プロを設立する[4]。

1975年に始まったテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』では、すべての登場人物の声を常田富士男と2人のみで長年演じ続けて親しまれた。放映終了後から復活を望む声が多く、2005年にはゴールデンタイムで再放送された。

1983年からはテレビドラマ『家政婦は見た!』に主演し、四半世紀以上に渡って演じ続ける当たり役となる。土曜ワイド劇場を代表する高視聴率の人気シリーズとなった。

1990年、映画『黒い雨』の演技により第13回日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞を受賞。

その他、2時間ドラマの主演を多くこなし、人気を不動のものにした。

2011年、福島第一原発事故に関連して「原発ゼロをめざす7.2緊急行動」呼びかけ人を務めた[5](他に湯川れい子根岸季衣など)。

2012年、S状結腸腫瘍手術のため、翌2013年1月に公開予定だった映画『東京家族』をクランクイン前に降板した[6]。代役は吉行和子が務めた。

2014年4月には53年間連れ添った夫の塩見哲と死別した[1][7]。

2017年1月13日、自己免疫性脊髄炎の加療のため休業を発表[8]。6月27日に翌年のNHK大河ドラマ西郷どん』のナレーションでの復帰が発表されたが[9]、11月22日、体調が優れないことを考慮して降板し西田敏行に変更された[10][11]。その後、2018年3月21日放送の『おやすみ日本 眠いいね!』(NHK)で仕事復帰(3月12日収録)[12]。

2019年に入って再び体調を崩し、同年1月5日から再び入院していたが、一週間後の12日13時31分、心不全のため、東京都の病院で死去[2]。82歳没。13日未明(12日深夜)に放送された『おやすみ日本 眠いいね!』では、盲腸のため都内の病院に入院していることが発表され、市原の訃報は伏せられていた。


人物
2003年4月頃から眼鏡を着用している。

好きな男性のタイプについて、「危険な男性」(具体的には得体のしれない感じだという)、演じてみたい役について、「犯罪者」と語っている[15]。

家政婦は見た!』の主演を務めたが、
家政婦を雇ったことはないという[16]。

2015年5月22日、NHK総合テレビあさイチ』出演時、放送禁止用語を連発し、司会を務めるNHKアナウンサーの有働由美子が謝罪する事態となった[17]。

演出家の浅利慶太は舞台『アンドロマック』、『アンチゴーヌ』に市原を起用し、「戦後新劇の生んだ最高の女優」と賞賛した[3]。

俳優座の先輩にあたる仲代達矢は市原の訃報を受けて「彼女の声のすばらしさは日本の演劇界の宝でした。ただきれいというだけではなく、声の質をもって、ものを言うという才能。1500席の劇場で、マイクなしで己の声を通していく力を、彼女は先天的にもっていた。本当に素晴らしい方だった」とコメントした。


第二次世界大戦大東亜戦争)での戦争体験の講演

市原悦子が語り続ける戦争体験と安倍政権への怒り「『国民の命と財産を守る』と言っても空々しい」


戦後72年を迎えたこの夏。先日お伝えした仲代達矢桂歌丸をはじめ、先の戦争を知る世代が減るのと呼応するように戦争の恐ろしさを国民がだんだんと忘れ始めている社会状況を危惧し、自らの戦争体験を語り残そうとする芸能人や文化人は多い。

 そんななか、『家政婦は見た!』(テレビ朝日)シリーズでおなじみの市原悦子も自身の戦争体験を語り話題となっている。

 それは、先月末に出版されたエッセイ集『白髪のうた』(春秋社)に記されている。1936年生まれの彼女は、空襲で危うく命を落としかける体験をしたという。

終戦の前の年、千葉市栄町(現在の千葉市中央区栄町)にあった生家のそばに爆弾が落ちたんです。家には庭に面して広い廊下がありました。
 家族でお昼ご飯を食べていたとき、「ダダダダーン」と爆音がして、ご飯のうえにうわっとほこりが積もったの。「何ごとだ!?」と居間を出たら、廊下がこなごなになったガラスの川でした。爆風でガラスが全部吹き飛んで、廊下に割れ散っていたんです。ほこりの積もったご飯とガラスの川、それが目に焼き付いています〉

 もしもこの爆弾が直撃していたら、確実に無事ではすまなかっただろう。事実、彼女の兄は爆弾が落ちた場所を見に行っているのだが、そこには空襲で犠牲になった人の遺体があったという。

〈夕方、兄が友達と、爆弾は家のそばの小学校に落ちたことを確かめてきました。爆風で近所の人が吹き飛ばされて、ばらばらになった。兄たちは、校舎の壁面に飛び散りへばりついた、その人の肉片を見たそうです。近所の人たちが「東京に落とす爆弾を試しに千葉に落としたんだ」と騒いでいました〉

 この空襲をきっかけに、市原の家族は同じ千葉県の四街道へ疎開する。空襲の恐怖からは逃れることができたものの、今度市原らを苦しめたのは飢えだった。慢性的な食料不足に苦しみ、素人ながら近所の農家に教わりながらトマトやきゅうりを栽培するも、それでも飢えは解消されない。最終的には口に入れられるものならなんでも、ザリガニすら食べるような生活を送ることになる。

 市原はその暮らしがつらいものであったと同時に、人間としての自分の礎をつくった体験でもあったと語る。『白髪のうた』ではこのように綴られている。

〈ひもじいことの辛さ、ものを大事にし、感謝する。自分のすることに責任感を持つ、すべての人間の原点になる情感を、そこで学んだ気がします。
 あの頃、今の自分ができたと思います。たくましいというか、案外へこたれないというか。自分のことは自分でする。自分にも周りの人にも世の中にも、あんまりガタガタしない。欲がなく、目の前にある仕事を丁寧にやるだけで満足する。その日食べられて、大事な友達が数人いて、楽しく身体を動かしていればいい、ちょうど「都合のいい」女が、その頃にでき上がりました〉

●戦争を失くすこと、世界の問題と関わることが女優の仕事だと市原悦子は語った

 とはいえ、こんな体験は子どもたちの世代にさせてはならない。その思いから彼女は戦争の記憶を後世に語り継ぐことをライフワークとする。それが戦争童話の朗読だ。

 野坂昭如「凧になったお母さん」「年老いた雌狼と女の子の話」や、あまんきみこ「ちいちゃんのかげおくり」など、戦争によって弱い者、とくに子どもたちが犠牲になっていく物語を読む朗読会を定期的に行い、その活動はいまや30年以上継続したものになった。そんな戦争童話の朗読について、エッセイ集『ひとりごと』(春秋社)のなかでこのように振り返っている。

〈私の朗読は、死とか戦争とか暗い話が多いといわれるけれど、私自身の現在は、戦争を抜きにしては語れない。いつも言っているけれど、戦後の食糧難の時代に、いまの私がつくられたといってもいいほどに、あのころの生活が私の原点です〉

 だから、先の戦争で得たはずの反省を無きものにし、再びこの国を戦争ができる国にしようと企む安倍政権の野望は到底許すことのできるものではなかった。2014年の朝日新聞のインタビューでは、怒りをにじませながらこのように語っている。

集団的自衛権を使うことが認められましたね。「自衛」とか「戦争の抑止力」とか信じられない。原発事故への対応もあやふやなまま、国は原発を輸出しようとしている。被爆者、水俣病患者を国は救済しましたか。「国民の命と財産を守る」と言っても空々しい。
 先の戦争で犠牲になった300万人の方々がどんな思いで死んでいったか。戦争によって人の心に何が起こったか。それを知れば、私たちがこの先どうすべきか見えてくると思います」

 市原が戦争童話の朗読をライフワークとしたり、メディア上で政権の方針に対して怒りをぶつけたりするのはなぜか。彼女はそれこそが女優の仕事であると確信しているからだ。『白髪のうた』ではこのように綴られている。

〈貧困の中で栄養失調で死んでいく子どもたちや、戦争で自分の子どもを失った母親たちが嘆き悲しむ姿を見ると、胸がしめつけられる。ああいう人たちがいる間は幸せになれないよね。いたたまれないですよ。
 戦争がなければあの顔を見なくて済むでしょう。だから、黙ってないで、戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事よ。「私の子どもは戦争にやりません!」って。
 理不尽なことで人は傷つく。歩道で自転車にぶつかるとか、地震に遭うとか、放射能で故郷を捨てさせられるとか......責任をどこへ持っていっていいかわからない、ひどい事故がたくさんある。一番気になるのはそのことですよ。私たち女優がもっとこういう理不尽なことに対して、モノを言えば少しは力になると思うの〉

 まさしくその通りだろう。彼女にはこれからも自らの貴重な体験を語り継いでいってほしいし、市原の掲げる〈女優の大事な仕事〉を引き継ぐ若い世代の役者がもっと現れてくれることを願ってやまない。
(新田 樹)

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災害時はご覧ください。


生活情報・札幌

生活情報・道央


北海道地震でインフラが麻痺した恐さを知った中で、
インフラに関する連絡先等を
今後も記事に載せておきます。
最悪・・皆さんは自力で調べるとは思いますが、念の為に・・
このまま、インフラに関するホームページや連絡先を載せておきます。

電気・ガス・水道・航空会社・列車・道内のバス会社・高速道路に関する
会社のホームページと電話番号を出来るだけ!!まとめました。





でわでわ。



また、宜しくお願いします。
Have a nice day!!









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皆様へ・・
いつもいつも、、こんな話につきあって頂いて
有難うございますm(_ _)m
そして・・
ご観覧してくれる皆様もどうもです。
その中には、生きている人達だけではないこともあります。笑w
 

でわ・・
 
 ☆しりとりゲーム続行です!!笑
 ペテルギウス版
 


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最近結構、ここに居ます。笑



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