歴史上のトンイ・・
生涯
本貫は海州。後日、領議政を追贈された崔孝元の娘として、1670年に生まれた。宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)として知られている。1689年、仁顕王后閔氏が廃位され、禧嬪張氏が王妃となった後、粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮(スンウンサングン。正五品相当。1692年4月22日以降。正確な時期はわかっていない)になり、粛宗19年(1693年)4月26日に淑媛(スグォン。従四品相当)になる。その年、王子を産むが、2ヶ月で亡くなる。仁顕王后が復位された年(1694年)の9月13日、延?君(?)、後の朝鮮の21代国王の英祖を産んだ。同じ年(1694年)6月2日に、淑儀(スグィ。従二品相当)になる。粛宗21年(1695年)6月8日に貴人(クィイン。従一品相当)になり、粛宗25年(1699年)10月23日には、朝鮮第6代国王端宗の復位(粛宗24年)を祝い、淑嬪(スッピン(スクピン)。正一品相当)に封じられた。粛宗44年(1718年)3月9日、病気となり49歳で死去。
家族
夫:粛宗
長男(早夭,無封君)
次男:英祖
三男(早夭)
本貫は海州。後日、領議政を追贈された崔孝元の娘として、1670年に生まれた。宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)として知られている。1689年、仁顕王后閔氏が廃位され、禧嬪張氏が王妃となった後、粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮(スンウンサングン。正五品相当。1692年4月22日以降。正確な時期はわかっていない)になり、粛宗19年(1693年)4月26日に淑媛(スグォン。従四品相当)になる。その年、王子を産むが、2ヶ月で亡くなる。仁顕王后が復位された年(1694年)の9月13日、延?君(?)、後の朝鮮の21代国王の英祖を産んだ。同じ年(1694年)6月2日に、淑儀(スグィ。従二品相当)になる。粛宗21年(1695年)6月8日に貴人(クィイン。従一品相当)になり、粛宗25年(1699年)10月23日には、朝鮮第6代国王端宗の復位(粛宗24年)を祝い、淑嬪(スッピン(スクピン)。正一品相当)に封じられた。粛宗44年(1718年)3月9日、病気となり49歳で死去。
家族
夫:粛宗
長男(早夭,無封君)
次男:英祖
三男(早夭)
生涯
1661年8月15日 (旧暦)に生まれ、1667年に王世子に冊封、1674年8月に14歳で朝鮮国王に即位する。垂簾聴政を受けず、直接国を統治した。
粛宗が朝鮮を治めた期間は、朝鮮建国以来、党争が最も激しい時期だった。在位中に南人と西人の党派対立関係が激しくなり、1680年、南人の専横に歯止めをかけたい粛宗が南人を大量に追放した庚申換局(キョンシンホァングク)を契機に、西人が老論と少論に分裂してこれらも互いに党派争いをするようになった。そしてある党派が違う党派を完全に追い出して一党による政治、換局政治が主たる現象となった。
粛宗の治世はさまざまな政治論争で一日も静かな日はなかった。仁顕王后を中心にする西人と禧嬪張氏を中心にする南人が対立した。仁顕王后が結婚してから6年以上子供を生むことができなかったので、後宮である禧嬪張氏が生んだ王子を王世子に冊封する問題で、南人と西人がひどく対立した。結局西人が流配されたり殺されたりして、仁顕王后が廃位される己巳換局(キサファングク)が1689年に起きた。この事件で禧嬪張氏は1690年10月22日に王妃となり、彼女の息子は王世子に冊封され、南人が政権を独占するようになった。しかし南人政権の期間も長続きせず、1694年甲戌換局(カプスルファングク)で反転された。その頃粛宗は王妃張氏に対して良くない感情を抱くようになり、仁顕王后を廃位させたことを後悔していた。仁顕王后復位を計画した西人は南人によって監獄に閉じこめられていたが、粛宗は南人を朝廷より追放して西人を政権につけ、1694年4月12日、王妃張氏を嬪に降格、かくして仁顕王后は王妃に復位した。復位6年後に仁顕王后が亡くなると、仁顕王后を呪ったとして1701年10月10日、禧嬪張氏は賜薬により処刑された。
しかし党争は西人と南人の対立で止まず、西人がまた老論と少論で分離して対立するようになった。
粛宗はさまざまな党派争いで弱くなった王権を回復し、勢力が強い朋党の力を弱化させるために、政権党を入れ替える「換局」を3度行った。そのために粛宗の治世を“換局政治”と称することもある。粛宗は換局によって朋党内の対立を触発、臣下間の政争を激化させると同時に王権を強化して国王に対する忠誠心を誘導した。そしてこのような換局政治を通じて強化された王権を土台に、民生安定と経済発展に相当な業績を残した。
粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、初めて全国的に実施するようになった。そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するように奨励した。そして文禄・慶長の役と丙子胡乱以後、混乱から脱け出すことができなかった社会を全般的に収め、整備して安定期を謳歌する政治功績を残した。
また清と国境紛争が起きると、交渉して1712年咸鏡道観察使李善溥に白頭山山頂に定界碑を立てさせ、国境を定めたりした。そして日本に派遣した通信使(朝鮮通信使)に幕府と交渉させ、日本人の竹島(現在の鬱陵島)への立ち入り禁止を保証させた(竹島一件)。また通信使を3度派遣(1682年、1711年、1719年)し、倭銀使用条例を定めることで倭館貿易を整備させた。その他にも王位を奪われて亡くなった魯山君を復位させて端宗という諡号を贈ると同時に死六臣の名誉も回復させ、廃庶人となった昭顕世子嬪姜氏(粛宗の祖父孝宗の兄・昭顕世子の妃)を愍懐嬪に復位させた。
しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なくなった。
1720年60歳で薨去。在位期間は46年。御陵は西五陵の一つ、明陵。
1661年8月15日 (旧暦)に生まれ、1667年に王世子に冊封、1674年8月に14歳で朝鮮国王に即位する。垂簾聴政を受けず、直接国を統治した。
粛宗が朝鮮を治めた期間は、朝鮮建国以来、党争が最も激しい時期だった。在位中に南人と西人の党派対立関係が激しくなり、1680年、南人の専横に歯止めをかけたい粛宗が南人を大量に追放した庚申換局(キョンシンホァングク)を契機に、西人が老論と少論に分裂してこれらも互いに党派争いをするようになった。そしてある党派が違う党派を完全に追い出して一党による政治、換局政治が主たる現象となった。
粛宗の治世はさまざまな政治論争で一日も静かな日はなかった。仁顕王后を中心にする西人と禧嬪張氏を中心にする南人が対立した。仁顕王后が結婚してから6年以上子供を生むことができなかったので、後宮である禧嬪張氏が生んだ王子を王世子に冊封する問題で、南人と西人がひどく対立した。結局西人が流配されたり殺されたりして、仁顕王后が廃位される己巳換局(キサファングク)が1689年に起きた。この事件で禧嬪張氏は1690年10月22日に王妃となり、彼女の息子は王世子に冊封され、南人が政権を独占するようになった。しかし南人政権の期間も長続きせず、1694年甲戌換局(カプスルファングク)で反転された。その頃粛宗は王妃張氏に対して良くない感情を抱くようになり、仁顕王后を廃位させたことを後悔していた。仁顕王后復位を計画した西人は南人によって監獄に閉じこめられていたが、粛宗は南人を朝廷より追放して西人を政権につけ、1694年4月12日、王妃張氏を嬪に降格、かくして仁顕王后は王妃に復位した。復位6年後に仁顕王后が亡くなると、仁顕王后を呪ったとして1701年10月10日、禧嬪張氏は賜薬により処刑された。
しかし党争は西人と南人の対立で止まず、西人がまた老論と少論で分離して対立するようになった。
粛宗はさまざまな党派争いで弱くなった王権を回復し、勢力が強い朋党の力を弱化させるために、政権党を入れ替える「換局」を3度行った。そのために粛宗の治世を“換局政治”と称することもある。粛宗は換局によって朋党内の対立を触発、臣下間の政争を激化させると同時に王権を強化して国王に対する忠誠心を誘導した。そしてこのような換局政治を通じて強化された王権を土台に、民生安定と経済発展に相当な業績を残した。
粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、初めて全国的に実施するようになった。そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するように奨励した。そして文禄・慶長の役と丙子胡乱以後、混乱から脱け出すことができなかった社会を全般的に収め、整備して安定期を謳歌する政治功績を残した。
また清と国境紛争が起きると、交渉して1712年咸鏡道観察使李善溥に白頭山山頂に定界碑を立てさせ、国境を定めたりした。そして日本に派遣した通信使(朝鮮通信使)に幕府と交渉させ、日本人の竹島(現在の鬱陵島)への立ち入り禁止を保証させた(竹島一件)。また通信使を3度派遣(1682年、1711年、1719年)し、倭銀使用条例を定めることで倭館貿易を整備させた。その他にも王位を奪われて亡くなった魯山君を復位させて端宗という諡号を贈ると同時に死六臣の名誉も回復させ、廃庶人となった昭顕世子嬪姜氏(粛宗の祖父孝宗の兄・昭顕世子の妃)を愍懐嬪に復位させた。
しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出なくなった。
1720年60歳で薨去。在位期間は46年。御陵は西五陵の一つ、明陵。