霊界大師 眞魚.らすかる国王MAO の26世紀先の未来まで残す。TIME CAPSULE BLOG2011年~

26世紀先の未来まで残す~『タイムカプセル BLOG』これが、僕の人生を懸けた霊能力の活用法です。

⑥アカシックレコードの語源を生んだ男・・ルドルフ・シュタイナーについて、、

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アントロポゾフィー発展の第二段階 1910-1916

1910年(49歳) 初頭 後にシュタイナーの主著となる『神秘学概論』を出版。前著『神智学』にはなかった宇宙進化論を記載。
8月ミュンヘンで神秘劇第一部『秘儀参入の門』が上演される。これ以降シュタイナーの活動は、建築、彫刻・彫塑、絵画、音楽、言語芸術(言語造形)、運動芸術(オイリュトミー)などの各芸術分野に及ぶ。
1911年(50歳) 1月 アニー・ベサントの養子ジッドゥ・クリシュナムルティ(1895-1986)を救世主とする「東方の星教団」がインドで設立され、まだ若かったジッドゥ・クリシュナムルティ(が、チャールズ・W・リードビターを初め、何人かの神智学協会の代表者らにより、“来るべき世界教師”、“キリストの再来”として宣伝されるようになる。
3月、妻のアンナ・シュタイナーが他界。
8月、ミュンヘンで神秘劇第二部『魂の試練』が上演される。
1912年(51歳) 8月、神秘劇第三部『境域の守護者』が上演される。同月、新しく作られる協会の名称として「アントロポゾフィー」を提案する。
9月 アントロポゾフィーが生み出した最も有名な運動芸術オイリュトミーが形作られ始める(正確には1908年五月の時点で既にその胎動が見られる。アントロポゾフィー協会(人智学協会)設立の準備を始める。
12月 神智学協会ドイツ支部は分裂に至り、世界組織とドイツの支部、結社の間に瞬く間に亀裂が見られるようになる。シュタイナーのグループはアニー・ベサントの養子、ジッドゥ・クリシュナムルティ(を来るべきキリストとして仰ぐことを拒んで、神智学協会を脱退する。同月28日彼はケルンでアントロポゾフィー協会を設立する。この協会は、ドイツ外の国々の神智学協会とも繋がりを持つようになっていく。また『アントロポゾフィー的魂の暦』が出版されたのもこの年である。
1913年(52歳) 2月3日アントロポゾフィー協会第一回総会がベルリンにて開催される。建設省の芸術担当者の反対により、「ヨハネス建築」(後にはゲーテアヌムと呼ばれる建物)が許可されない。
5月中旬に建築候補地としてドルナッハが挙がり、同18日にそれを決断。
8月にはミュンヘンにて神秘劇第四部『魂の覚醒』が上演される。
9月20日にはゲーテアヌムの礎石奉納の儀式を行う。
1914年(53歳) 3月31日には無二の友人であり最も良き理解者である詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンを亡くす。
7月28日 第一次世界大戦勃発。
12月24日 マリー・フォン・ジーフェルスと再婚。また1914年から1923年にかけてシュタイナーはベルリンとドルナッハを行き来し、両都市をその居住地とする。
1915年(54歳) ゲーテアヌムの舞台の、背景の中心に据えられるべき「人類の代表者」と題する彫刻の製作に取り掛かる。またゲーテアヌムの大小二つの天井画を描く。


アントロポゾフィー発展の第三段階 1917-1923

1917年(56歳) 以降、シュタイナーの活動は実践的な社会運動へと及ぶ。彼は、自ら理念を携えて、様々な社会生活の領域に登場した。此の年に彼の中に社会有機体三分節化論の理念が浮かび、その実現に勤しむがそれは徒労に終わる。
1918年 11月11日第一次世界大戦終結
1919年(58歳) 社会有機体三層化論に賛同したシュトゥットガルトのタバコ会社工場主エミール・モルトから従業員の師弟教育のために学校をつくってほしいと依頼される。
9月7日 シュトゥットガルトに「自由ヴァルドルフ学校」を開校。社会運動への参加に伴い敵対者が伴う。
ドイツ国民及び文化世界に!』を出版。
12月23日から翌年1月3日にかけて同地で第一回自然科学講座が開催される。
1920年(59歳) 3月21日から4月9日にかけて第一回医学講座がドルナッハにて開かれる。これによってシュタイナーは、イタ・ヴェーグマンと共にアントロポゾフィー医学(シュタイナー医学)の創始者とされることになった。:ドイツに株式会社「来るべき日」、スイスに「フトゥルム」を設立。
9月26日午後五時 ゲーテアヌム開館。この頃から毎週のようにアントロポゾフィー非難の記事が新聞に掲載されるようになる。
1921年(60歳) 2月 月刊誌『ディ・ドライ』を創刊。
4月には治療オイリュトミー講座を開く。
6月、ドルナッハの隣町アーレスハイムに、イタ・ヴェーグマン拠って「臨床治療研究所」が開設される。
8月 週刊誌『ダス・ゲーテアヌム』を創刊。この頃、自らの自伝を書いた。
11月 ノルウェーオスロ大学で「経済の根本問題」と題して講演。
1922年(61歳) 7月24日-8月6日 「国民経済学講座」が開かれる。
9月にキリスト者共同体の創設に寄与した。
12月31日 午後十時、火災によってゲーテアヌムが炎上、翌朝焼失。
1923年(62歳) 1月 体調が優れない中、週刊誌『ゲーテアヌム』で自伝『我が生涯の歩み』GA28の連載を始める。(翌々年の自身の死によってそれは中断、未完に終わる)。
12月25日-翌1924年1月1日 降誕祭会議を開催。それまでのアントロポゾフィー協会(人智学協会)を刷新し普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)として新しく発足。またその心臓部となる「霊学の為の自由大学」(翌年2月15日第一講開催)を設立する。本部はゲーテアヌムに置くものとされた。

晩年 1924-1925

1924年(63歳) 元日、ゲーテアヌム再建の為の構想を発表する。
1月13日には普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)の週刊報告誌『報告書』を創刊し、降誕祭会議に参加出来なかった者達の為にもその会議の内容を公開した。
2月15日には霊学の為の自由大学に於ける第一学級講座(クラッセン・シュトゥンデKlassenstunde)を開講する。此の講座は後に第二学級、第三学級と設立される予定であったが、シュタイナーの死によって中断された。
2月16日以降、彼の「本来の」使命であったカルマに関する連続講義(それは50回にも亘り、9月28日まで続く)をドルナッハにて開始し、その内容を凝縮したものを各地で講演し(これらは合計30回を越える)、降誕祭会議以降アントロポゾフィー運動と、普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)は同義identischになったと説き、協会の重要性について熱弁して回った。
同月、音楽オイリュトミー講座を開く。
3月末には、1月に日の目を見た「新しいゲーテアヌム」の1/100スケールの立体モデルを粘土で製作することに熱中した。三日三晩アトリエに籠もり切ったシュタイナーは「熱に浮かされたように」創作に集中し、3月26日に模型が完成し、僅か五週間で図面が引く。
6月、コーバーヴィッツでいわゆる「農業講座」が開かれ、かの有名なバイオ=ダイナミック農業の基礎を築く。この方法で作られた野菜は、ドイツではデメターDemeterというマークがつけられている。
6月から翌7月 言語オイリュトミー講座及びに治療教育講座がドルナッハにて行われる。
9月、ドルナッハにて演劇講座。9月28日午後8時からの講演を20分で中断し、病床に就く。三月に出来上がった
12月1日 「新しいゲーテアヌム」の建築許可が下りる。このコンクリート作りのいわゆる「第二ゲーテアヌム」の建設が実際に始まったのは翌年に入ってからであり、完成したのは1928年、即ち彼の死の三年後であった。
1925年(64歳) 元日深夜、卒倒、高熱により食欲は減衰。3月26日病状は好転するものの、3月29日病状は悪化、3月30日午前4時頃 イタ・ヴェーグマンに苦痛を訴え、5時頃に普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)理事である、アルベルト・シュテッフェン、ギュンター・ヴァックスムートが病室に呼ばれる。午前10時頃、ルドルフ・シュタイナー他界。
4月1日 夜に葬儀が執り行われる。死の三日前までシュタイナーは「人類の代表者」にのみを振っており、また死の前日には第二ゲーテアヌムの内部建築のために使用するアトリエの完成について訊ねているなど、その制作意欲は最後まで衰える事はなかった。