霊界大師 眞魚.らすかる国王MAO の26世紀先の未来まで残す。TIME CAPSULE BLOG2011年~

26世紀先の未来まで残す~『タイムカプセル BLOG』これが、僕の人生を懸けた霊能力の活用法です。

⑤アカシックレコードの語源を生んだ男・・ルドルフ・シュタイナーについて、、

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ヴァイマール時代 1890-1896


1890年(29歳) ウィーンの『国民新聞』に演劇評論を連載。秋にワイマールへ転居し、ゲーテ=シラー遺稿保管局にて働くようになる。ワイマール版(ゾフィー版)ゲーテ全集の編纂に於いて、ゲーテの自然科学論文集の出版に携わる。
この時期エルンスト・ヘッケルに面会している。
1891年(30歳)ロストック大学のハインリッヒ・フォン・シュタイン教授に学生資格のない社会人として自費で論文指導(Externe Promotin)を受けることを許され、『認識論の根本問題――特にフィヒテの知識学を考慮して』と題する論文で哲学博士の学位を取得する。ただし、評価は「可」(ausreichend 合格4段階評価の一番下)だった。

1892年(31歳) 5月 その論文に加筆・訂正したものを『真実と科学』GA3として出版。夏にはそれ迄のユンケル通り12番から、アンナ・オイニケの住むプレラー通り2番に転居。この時期いくつかの哲学、及び哲学史に関する著述をする、この中には1894年11月に刊行された『自由の哲学』GA4も含まれる。
1894年(33歳) 教授資格申請論文は評価されず失敗に終る。
1895年(34歳) 5月『フリードリッヒ・ニーチェ 時代の闘士』GA5を出版。
1896年(35歳) 「ゲーテ=シラー遺稿保管局」を退職。


ベルリン時代初期 1897-1901

1897年(36歳) ベルリンへ転居。
22歳から手がけたゲーテの自然科学論文の校訂作業が完了し、『ゲーテの自然科学論文集』が出版される。
7月 ゲーテ研究の集大成とも言える『ゲーテの世界観』GA6を出版。その本の最終章においてはゲーテヘーゲルの関係性について述べている。
オットー・エーリッヒ・ハルトレーベンと共に『文芸雑誌』Magazins f?r Literatur(そこでの記事はGA29-32に収録)を創刊。「自由文芸協会」、「自由演劇協会」と「ジョルダーノ・ブルーノ同盟」にて活動。シオニズムに対して強い拒絶を示す。
1898年(37歳) 自身の編集による『演劇』を創刊、しかし翌年末には廃刊。
1899年(38歳) 1月13日からヴィルヘルム・リープクネヒト(1826-1900)に依って設立された労働者教養学校Arbeiter-Bildungsschuleで授業(歴史、話術・文章表現など)を始め、この仕事は1904年まで続く。この学校はやや社会主義的な色彩を持った教育施設であった。
10月31日 未亡人であるアンナ・オイニケ(1853-1911)と結婚し、フリーデナウ、カイザー通り95番に転居。
1900年(39歳) ドイツの作家ルードヴィッヒ・ヤコボフスキー(1868-1900)によって設立された「来るべき者達」と交流。
9月末『文芸雑誌』の仕事を辞める。
初秋に、ブロックドルフ伯爵及びに伯爵夫人にベルリンの「神智学文庫」での講演を依頼され9月22日はニーチェについて、同月29日にはゲーテについての講義を行う。
10月6日より神秘主義に関する連続講義を開始、この内容は翌年自身の手に拠って纏められ出版されるGA7。これ以降、シュタイナーは、講演活動を活発に行うようになる。
生涯 神秘思想家として(後半)



アントロポゾフィー発展の第一段階 1902-1909


1902年(41歳) 1月17日に神智学協会の会員になる。
7月 マリー・フォン・ジーフェルス(1867-1948)と共にロンドンでの第13回ヨーロッパ支部年集会に出席。
9月には昨年に自身が行った講義を編集した『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』GA8が出版される。
10月19日 神智学協会ドイツ支部を設立し、同時に事務総長に就任(シュタイナーの妻マリー・シュタイナーによれば、この神智学協会の指導者になることについてシュタイナーは相当な躊躇をしていたという)。
1903年(42歳) 年頭にゼー通り40番に転居。
3月「建築家の家」という会場にて公開講義を開始し、この活動は1918年まで続く。
5月、雑誌『ルシファー』(後に『ルシファー=グノーシス』)を創刊し、その出版にあたる(そこでの記事はGA34に収録)。ワイマール、ケルン、ハンブルクなどのドイツ各地でも活動を始める。
10月、モッツ通り17番に再び転居(現在彼らの記念プレートが掛かっている)。
1904年(43歳) 5月『テオゾフィー』(邦訳では『神智学』)GA9を出版。それまでは自身の世界観を明らかにしていなかったが、この著作によって自身の思想の根幹を初めて公にした。雑誌『ルシファー』はウィーンの雑誌『グノーシス』に合併し『ルシファー=グノーシス』とその雑誌名を改める。
6月 現代人にふさわしい、霊的感覚を啓発するための修行法を示す『いかにしてより高次の認識を獲得するか』と題する連載を開始し、当初予定よりも倍近く長く続き(翌年まで続く)、後に一冊の本として出版されるGA10。
7月からは同誌にシュタイナー自身の霊視によって観察した宇宙や人間の進化の様子を描いた『アカシャ年代記より(AUS DER AKASHA.CHRONIK)』の連載が始まるが、この内容が彼の生前一冊の本として出版される事はなかった。同月アムステルダムにて神智学会議に出席。またこの年、マルクス主義である労働者教養学校側から、神秘思想家であるシュタイナーへの反対意見が生まれたが、生徒の支持が強く授業は続行される事になる。
1905年(44歳) 1月21日、同校指導部からの妨害により退職。
5月7日神智学協会の創始者ブラヴァツキー夫人について「霊的使命を持った人物は人々から生涯の外的側面によって判断されるため必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗を受けざるを得ない」という旨を述べる。
10月 ロンドンでの神智学会議に出席する。
1906年(45歳) ベルリン以外では初めての連続講義をパリにて開催、またエドゥアルト・シュレーにもこの時期初めて逢う。
7月にはパリでの神智学会議に出席。フランクフルト・アム・マインや、ブレーメンなどでの、ドイツ各地での神智学支部の設立に関わる。
1907年(46歳)神智学協会会長であるヘンリー・スティール・オルコット(1832-1907)が2月17日に死去し、アニー・ベサントが第二代会長に就任する。
5月 シュタイナーが協会に参加してから初めてのドイツでの神智学会議は、ミュンヘンで開かれる。彼はそこでのインテリア設計を請け負い、自身の思想を建築的空間に可視的に表現する事を試みる。またシュレー作の『エレウシスの神聖劇』も上演される。
1908年(47歳) 8月1日 マリー・フォン・ジーフェルスは「哲学-神智学出版」(後に「哲学-人智学出版」)を設立する。この年にシュタイナーは初めてスカンディナヴィア地方を旅し、同時に各地で講義活動を行う。
1909年(48歳) ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルン(1871-1914)に出会う。
8月、ミュンヘンでシュレー作の『ルシファーの子供たち』を上演。
12月、自身の霊学的研究の集大成とも呼べる『神秘学概論』GA13を脱稿。