霊界大師 眞魚.らすかる国王MAO の26世紀先の未来まで残す。TIME CAPSULE BLOG2011年~

26世紀先の未来まで残す~『タイムカプセル BLOG』これが、僕の人生を懸けた霊能力の活用法です。

④アカシックレコードの語源を生んだ男・・ルドルフ・シュタイナーについて、、

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生涯 哲学者として(前半)


幼少時代 ウィーン以南のオーストリア各地 1861-1872

1861年2月27日 オーストリア=ハンガリー帝国の国境近くの町クラリエヴェク(現在のクロアチア)にてオーストリア帝国南部鉄道の鉄道員(公務員)である、ヨーゼフ・シュタイナーの第一子として誕生[1](両親は前年5月16日に結婚)。
1862年(1歳)ミュードリングへ転居。
1863年(2歳)年頭 僅か半年でミュードリング を去り、ポッチャッハ(何れも現在のオーストリア領)へ転居。彼は8歳までそこで生活する、また妹(レオポルディーネ)と弟(グスタフ)が生まれたのもこの土地である(家族は合計五人で、これ以降家族が増えることはなかった)。    
1868年(7歳)この頃、物質世界を超えた超感覚的(霊的)世界を感知するようになったという。
1869年(8歳)父親の転勤のため、ノイドゥルフルへ転居する。
1870年(9歳)学校の代用教員に幾何学に関する本を借り、幾何学に魅了される。
1871年(10歳)、カトリック教会のミサに出席し、大きな感銘を受け、また教区のリベラルなカトリック神父を通して地動説を知る。フリーメーソン支部に出会うものの、心的な関係性は生まれない。隣町ウィーナー・ノイシュタットの医師カール・ヒッケルを通してドイツ文学を知る。駅にある無線電信で電気を知る。読むことには問題はなかったが、正しく文字を綴ることに苦労した


実業学校時代 ヴィーナー・ノイシュタット 1872-1879


1872年(11歳)ノイドゥルフルから5km離れた隣町ウィーナー・ノイシュタットにある実業学校に徒歩で通学する。一年生の時には学習に苦労するが、徐々に学力を身に付け、最終的には「優等生」と評されるようになる[3] 。
1873年(12歳)学校の年報の中あった原子と分子に関する論文に触発され、自然科学の文献を読みあさる。
1874年(13歳) 機械論的な世界解釈と、大好きな幾何学に没頭する。
1876年(15歳)、ヒッケル医師を通して哲学者テーオドール・レッシングを知る。
1877年(16歳)小遣いを貯めてカントの『純粋理性批判』を購入し、一人で読みふける。またヘルバルト主義的哲学の研究にも没頭する。
1879年(18歳)実業学校を卒業。この年、ある一人の薬草収集家と出会い、人類の歴史の中で、密かに、霊的な叡智が受け継がれて来たことを知り、これまで、人に話して来なかった自分の霊的な経験を語る。また、その男を通じて、知り合った、シュタイナー自身が“霊的な教師”と呼ぶ男から人生についてのアドバイスいくつか受けたという。


学業時代 ウィーン 1879-1890


インツァースドルフ(ウィーンから南東南へ約5km離れた近郊都市)への転勤のため、そこから2km離れたオーベルラーに住む。実業学校の卒業生には大学入学資格がなかったため、奨学金を得て高専に進むことにする。入学までの夏休みには(新学期は秋に始まるので)、フィヒテの知識学に没頭する。
10月、ウィーン工業高等専門学校(現ウィーン工科大学)の実業学校教職コース[要出典]に入学し、主に数学、生物学、物理学、化学を学ぶ。また、ウィーン大学などでも聴講生として講義を聞く。[4]事物の根本をすべて物質に還元して説明する自然科学と自身の霊的経験とのギャップに悩む。
1881年(20歳) 通学の電車の中でフェリックス・コグッツキー(1833-1909)に出会い交友を深め、後にトゥルーマウの自宅を度々訪問するようになる。
1882年(21歳) 家族はブルン・アン・ゲビルゲ(ウィーンから南西へ約10km離れた都市)に転居。
『原子論的概念に対する唯一可能な批判』と題する論文をフリードリッヒ・テオドール・フィッシャーに送る。この頃彼は、音楽に対して非常な難色を示すようになり、決定的なアンチ=ワーグナーを主張するようになる。(後には「音楽で霊的秘儀を解釈しようとしているリヒャルト・ワーグナーを研究しなければなりません」と語っている)
1883年(22歳)3月当時の著名な出版家、ヨーゼフ・キルシュナーは無名の学生であった22歳のシュタイナーの才能に注目し、ゲーテの自然科学に関する著作を校訂し、序文を書く仕事を依頼する。(14年後の1897年に完成)
ドイツ文学史の教授カール・ユリウス・シュルーアーを通して、ゲーテに触れ、ゲーテに関する基礎的な研究を始め、この頃『ファウスト』を初めて読む。そして、霊を否定する近代の自然科学では生命の本当の姿を捉えることはできが、自然(物質)と霊(精神)の間の架け橋を示すゲーテの世界観に可能性を感じる。シュタイナーはシュルーアーの観念論を更に発展させ、自らそれを「客観的観念論」と呼ぶようになる。ライトリンガーの実験室にて、物理学講座を選択し、特に光学に関する知識を得、後の『ゲーテの色彩論』の編集の際に、光の本質を理解する為の基礎を築く。
10月、教職資格を取得することなくウィーン工業高等専門学校を中退。
1884年(23歳) ウイーンの商人の家で家庭教師としての副業を開始する。その10歳になる息子は水頭症で発達が遅れていたが、シュタイナーの献身的な働きにより、2年後には健康状態も改善され、ギムナジウムに入学することができた。後には医者になる。哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『人倫的意識の現象学』の研究に専念する。
1886年(25歳) キュルシュナーからシュタイナーを紹介されたシュペーマンは1886年シュタイナーの処女作となる『ゲーテ世界観の認識要綱』を出版する。
10月『ゲーテの自然科学論文集』の副読本として、初の著作『ゲーテ的世界観の認識論要綱』GA2を出版する。
1888年(27歳) 1月から7月に掛けて『ドイツ週報誌』の編集をする。
キュルシュナー編集の辞典の縁もあり、美学に関する研究を進め、特にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンエドゥアルト・フォン・ハルトマンの美学史に専念し、その研究内容はヴァイマールの「ゲーテ協会」にて『新たな美学の父としてのゲーテ』という題名の講義によって公開される。ロベルト・ハマーリングの『ホムンクルス』に強い感銘を受ける。プロテスタント系の牧師と興味深い出会いをする。豊富な交友関係とは裏腹に、内的な孤独に見舞われる。
1889年(28歳)初めてニーチェの『善悪の彼岸』を読む。またフォン・ハルトマンに初めて面会し、またローザ・マイレーダーとも知り合う。冬にウィーンの神智学徒フリードリッヒ・エックシュタインと知り合う。

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