和田妙子(ミス・マヌエラ)戦前戦後の海外を
舞台にたくましく踊り抜いた・・
ジャズ演奏者の育ての母
『遥か500年以上残る世界史』
和田妙子
(ミス・マヌエラ)
わだ たえこ
1911(明治44)~ 2007.5.18(平成19)
昭和期のダンサー
朝鮮半島忠清南道大田出身。旧姓は山田。鎮南浦にある女学校卒業後、1928(S3)17歳の時に、松竹楽劇部(SKD)1期生に合格。 その際にもらった芸名は「水の江たき子」であったが、「ひらがなが気に入らなかったから」と同期生の「東路道代」と名前を交換した。 後に名前を交換した同期生(本名は三浦ウメ)は名を水の江瀧子(滝子)と改名し「男装の麗人」として一世を風靡した(水の江瀧子の実兄の子、すなわち甥に当たる人物はロス疑惑の三浦和義である)。
松竹楽劇部に入ってすぐに振り付けの先生と結婚するも、19歳で未亡人となる。 ジュージ・ホリーがタップダンスを日本において教えていた際、妙子が銀座の吉野家に仲介し、タップの靴を日本ではじめて作らせている。 '34ジャズ歌手のリキー宮川(1911-1949)と再婚。スパニッシュダンサーの川上スズコに師事。歌と踊りのイルミナーテを公会堂にて行う際に、夫の前座として踊りを披露していた。 4年後、リキー宮川と離婚。離婚を期にアメリカへダンサーとして渡ろうと決心するも、アメリカの友人より、ダンスをするのであれば、世界中の舞踏家が集まる上海に行きなさいと諭され、'38上海に渡った。
優秀なアメリカ人マネージャーのハロルド・ミルズと出会い、フランスのムーランルージュで女形をやっていたドン・パスコーラを紹介され、師事。 抗日感情が強い世界での活動であったため、名前を「マヌエラ」として'39上海ナイトクラブ「カサノバ」にてデビュー。 当時日本人の入り込めないフランス租界、米英共同租界において、国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」としてスパニッシュを踊るクラブダンサーとして活動。 「魔都の花」として人気沸騰。“エキゾチック・マヌエラ” “ミステリアス・マヌエラ”とも呼ばれ上海を席巻した。 市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には十八番の「ペルシャンマーケット」を踊るマヌエラの大きな写真が飾られた。 国歌を演奏しながら行進していた米海兵隊のマーチングバンドは、写真の前にくると曲を「ペルシャンマーケット」に変えたという。 '41ユニバーサル映画副社長のサーキンよりハリウッドに来ないかとスカウトされ、アメリカへ進出しようと荷物も送った4日後の12月8日に真珠湾攻撃、日米開戦が始まったため夢が途絶える。 '43上海日本人街にて「大和洋行」を設立するなどの実業家(実際は陸軍の工作員)であり、熱烈のマヌエラのダンスファンであった和田忠七(当時の肩書きは上海在郷軍人会会長 同墓)と出会い、後に三度目の結婚。 '46和田と共に日本へ引き揚げる。開戦時には連合国側のスパイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束され、終戦時には日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。
戦後、東京のNHK側に喫茶店「モレナ」を経営。その後、内幸町に戦後初のナイト・クラブ「マヌエラ」を経営。 上海仕込みの英語と度胸で行儀の悪い進駐軍の兵隊をしかり飛ばすなど、東京の社交界で知らぬ者はいない存在となる。 オープニングの司会をE・Hエリックが務めたこともあり、三島由紀夫(10-1-13-32)、犬養健、麻生太賀吉、力道山、古垣鉄郎、マッカーサーなども顔をみせていたという。 また「マヌエラ」は日本のジャズ・マン達の登竜門となり、ジョージ川口(9-2-32)、マーサ三宅、前田憲男などが巣立っていった。妙子は戦後日本のジャズの育ての母とも言われている。
波瀾に満ちた生涯を描いた作品は多く、小説『ルーズベルトの刺客』(著者:西木正明)のモデルや、自著『上海ラプソディー ~伝説の舞姫マヌエラ自伝~』など多数有る。 80歳から日本舞踊を習いはじめた。2007.5.18(平成19)午後、東京都八王子市の病院にて心不全のため逝去。享年95歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。
<産経新聞 訃報記事>
<平成14.5.21放送「徹子の部屋」など>
*クリスチャンであるため、墓石は洋型で、十字が刻む。
*芸能関係の人名辞典には出身地を北九州小倉出身としているものもあるが、これは親の出身地である。
和田忠七
陸軍砲兵少尉。陸士出ではなく高商出の予備士官であったが、梅機関で有名な参謀本部の影佐禎昭大佐に見出され、商社勤務の経歴の商才と柔道5段、そして茫洋な性格が買われて、予備役編入の上、上海で商売を始めるよう指令を受ける。 当時、上海にはヨーロッパにおけるナチスドイツの脅威から逃げて来たユダヤ人が多く移住していたため、ユダヤ人の動静を探るため上海に民間人として送り込まれたのである。
和田は上海で店を開き、軍の後ろ盾を得て、衛生陶器を中心に商売を広げながら、参本の指示を待った。 商売が軌道に乗り、1938.2.18上海のガリア・ビルに「大和洋行」を設立。'40ドイツと日本の思惑が一致した工作「ルーズベルトの暗殺」が密かに計画され、満州の一部にユダヤ人の国を建設する後押しをするという約束で、参本は12月に和田を在郷軍人会会長に就任させ、ユダヤ人達に軍事教練を始めるよう命令した。 当時、提籃橋周辺のユダヤ人街のユダヤ人は日本人に管理されていた。そこでは日本人による軍事教練も行われていた。 そのため和田の役割は、その軍事教練の教官となり、訓練を実施するとともに、秘密工作に適したユダヤ人をピックアップすることであった。 翌'41他の予備役少尉と共に上海在住のユダヤ人自警団に軍事訓練を開始(フリッツ作戦=星工作)。
'43和田はマヌエラと出会い、そのダンスに魅了され、既婚者であったが、後に妻と離婚し、マヌエラと再婚を決意した。'46.4マヌエラと共に日本へ引き揚げる。
<ルーズベルトの刺客(西木正明)>
2007年7月7日の納骨式に参列された方のブログの写真によると、十字架を刻んだ洋型墓石に縦書きで5行、名前なのかイエスの言葉なのかが彫られている。
1911(明治44)年の末に朝鮮で生まれ、1930年代末から終戦まで、
上海の舞姫ミス・マヌエラとして知られた女性ダンサーの一代記。
映画『赤ひげ』の内藤洋子は姪、
つまり喜多嶋舞の大伯母に当たる人でもある。
実のところ、こういう女性が存在していて、今も(おそらく)健在であるということは全然知らず、ただ、ジャケットに写っている不思議な雰囲気の女性と「上海」の地名に心を引かれて読んでみたのだが、これが、そこらの小説よりもよほどおもしろかった!
身長150センチそこそこながら、ヒロインは前向きな情熱の固まり。東京松竹の第一期生で、あの水の江たき子と芸名交換した、というエピソードも。1929年に18歳で恩師と結婚、出産、未亡人となってフリーのダンサーに。さらに日系二世の人気歌手と結ばれたものの、結婚に破れて1937年末大連に渡り、たどりついた先が東洋のヨーロッパ・上海。努力と運とでダンサーのトップに登り詰め、ハリウッド進出も、という矢先に、日米開戦……
上海では国籍不明の「ミス・マヌエラ」と名乗り(実際に、フィリピンもしくはスペインの血を連想させるルックスだった)、無国籍のコスモポリタンとして西欧人・アジア人たちに囲まれて生きていた。あの、満映の李香蘭が日本人でありながら中国人の名前で仕事をすることを強いられ苦悩したことと比べると(参照『李香蘭 私の半生』新潮文庫)、マヌエラには政治状況に起因する悩みがほとんどない。彼女の課題はただ、自分のもって生まれた才能をどう活かすか、そしてひとりの女性としてどう輝くか。怒濤の時代に、貧困や人種差別で悔しい思いもしたけれど、“自己実現”だけを目指して生きることができた彼女は、当時としては最高に運のいい女性だったのかもしれない。
【余談】 マヌエラの二度目の結婚式は「亀戸のほうのメソジスト教会」だったと本にあるが、これは現在の日本基督教団亀戸教会のことだろう。2001年8月に同教会の信徒の方と話をする機会があったので尋ねてみたら、やはり(カナダ・)メソジスト系、最近創立80周年を祝ったという。なんでも、亀戸教会には「洗礼名」のしきたりがあるそうで、同じ教団でも内部はいろいろだと思った。
マヌエラが当初はお酒が嫌いで、男性にもガードが固く、舞台衣装もおへそを出すような露出度の高いものは一切着なかった……なんてことにもメソジスト的背景が感じられる。あと、おかしかったのは、彼女が敗戦後に上海からポルトガルに逃れようと旅券を申請したときのエピソード。うっかり「宗教はメソジスト」と告げてしまったため、カトリック国にメソジストの居住は認められない! と大使館員に拒まれて、頓挫したという。ひょっとして「クリスチャンです」ならセーフだったのだろうか??
この自伝は、女性の生き方を描いたものとしては魅力的なのだが、惜しむらくは、時代背景の書き込みが少なく物足りない(実際に、彼女はさほど意識して生きてなかったと思うが)。そんな部分を補ってくれるのが、西木正明の作品『ルーズベルトの刺客』(新潮社・1991/1994)である。
戦前の上海でダンサーとして活躍し、戦後はクラブ経営者として多くのジャズメンを育てた和田妙子さんが18日午後、東京都八王子市の病院で亡くなった。95歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。
和田さんは北九州・小倉の出身。昭和3年、松竹楽劇部1期生に合格し、もらった芸名は「水の江たき子」。「ひらがなが気に入らなかったから」と同期生の「東路道代」と交換し、後に名を滝子とかえた同期生は愛称ターキーの大スターとなった。一方の和田さんは2度の結婚を経て13年に、上海に渡った。
国籍不明のダンサー「ミス・マヌエラ」としてフランス租界のクラブでスパニッシュを踊り、「魔都の花」として人気沸騰。市内一の繁華街、南京路の朝鮮銀行の壁には十八番の「ペルシャンマーケット」を踊るマヌエラの大きな写真が飾られた。国歌を演奏しながら行進していた米海兵隊のマーチングバンドは、写真の前にくると曲を「ペルシャンマーケット」にかえたという。
開戦時には連合国側のスパイと疑われて日本の憲兵隊に身柄を拘束され、終戦時には日本のスパイとして米国の陸軍情報部の取り調べを受けた。帰国後は東京・内幸町でクラブ「マヌエラ」を経営した。上海仕込みの英語と度胸で行儀の悪い進駐軍の兵隊をしかり飛ばし、この店で前田憲男、ジョージ川口、マーサ三宅らが育った。いわば戦後日本のジャズの育ての母でもある。波乱に満ちた和田さんの人生は、西木正明氏の小説「ルーズベルトの刺客」のモデルにもなった。
和田さんは「ミス・マヌエラ」として上海の人気ダンサーだった
戦前の上海の様子を伺いに、東京・渋谷のマンションを訪ねたことがある。真っ昼間というのにきりりと冷えた日本酒で迎えてくださり、少し顔を赤らめながら、こんなことをいった。「昔は人に肌を見せることが好きだったんだけど、最近はお風呂あがりに鏡を見ると、なんだかしわしわで、まるでおばあちゃんみたい」。当時、89歳。
長年の親交があった帝国ホテルの犬丸一郎元社長が昨年見舞った際にも、許可を得て街に出て、ビールをグラスで一杯飲んだのだという。「きっぷがよく、いつまでもかわいい人でもありました」。犬丸さんは、
故人をそうしのんだ。
ミス・マヌエラさん納骨式
July 07 [Sat], 2007, 14:16
本日、朝11時に多磨霊園そばの石屋さんに。
5月18日に他界された上海の舞姫「ミス・マヌエラ」こと和田妙子さんの納骨式に出席するためだ。
95年の波乱万丈の人生を過ごされたマヌエラさんに献花をして最後のお別れ。ああ、またあの時代に生きた人がまたひとり…。服部良一さんの舞台「上海、そして東京の屋根の下で」をきっかけに、多くの方と知り合い、そして色々なお話を伺う機会をたくさん設けていただいた。マヌエラさんもそのおひとりであり、本当に残念。
昨日、たまたま徹子の部屋を点けていたら今年亡くなられた方の特集。数年前にご出演された時のマヌエラさんの姿が映し出され、去年11月16日に会いに行き、おしゃべりをさせていただいたときのお元気なお姿が思い出されました。
何かのドキュメンタリーで学生時代に知った方です。
戦前戦後に、こんな日本人が居たのかと・・
驚きましたね。
こういう歴史の教科書に載らない、消えてはならない偉人こそ
この500年以上残る世界史に相応しい。
11年前か・・霊界に真っ先に帰っても、
待機期間を挟むと霊界で中学生くらい?
まさか?この世の皆さんは、生前のご高齢の姿から
その様な姿になってるとは思いもよらないでしょうがね。
北海道地震でインフラが麻痺した恐さを知った中で、
インフラに関する連絡先等を
今後も記事に載せておきます。
最悪・・皆さんは自力で調べるとは思いますが、念の為に・・
このまま、インフラに関するホームページや連絡先を載せておきます。
電気・ガス・水道・航空会社・列車・道内のバス会社・高速道路に関する
会社のホームページと電話番号を出来るだけ!!まとめました。
でわでわ。
また、宜しくお願いします。
Have a nice day!!
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皆様へ・・
いつもいつも、、こんな話につきあって頂いて
有難うございますm(_ _)m
そして・・
ご観覧してくれる皆様もどうもです。
その中には、生きている人達だけではないこともあります。笑w
でわ・・
☆しりとりゲーム続行です!!笑
ペテルギウス版
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最近結構、ここに居ます。笑