霊界大師 眞魚.らすかる国王MAO の26世紀先の未来まで残す。TIME CAPSULE BLOG2011年~

26世紀先の未来まで残す~『タイムカプセル BLOG』これが、僕の人生を懸けた霊能力の活用法です。

⑦アカシックレコードの語源を生んだ男・・ルドルフ・シュタイナーについて、、

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死後


1928年 第二ゲーテアヌムが完成。
国家社会主義の時代(ナチスドイツ時代)には、アントロポゾフィーは、さまざまな規制を加えられ、もとよりその個人主義により、ナチス全体主義と対立せざるを得ない立場にあり、闘いながら自らを守っていくしかなかった。加えて人は、アントロポゾフィーフリーメーソンとのつながりで理解した。
1933年11月15日、国家社会主義テューリンゲン州の経済相は、生物学的力動的(バイオダイナミック)な生産方式の宣伝普及を禁止した。
1935年11月1日 ドイツのすべての普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)が、ラインハルト・ハイドリヒ の訓令により禁止された。アドルフ・ヒトラーも既に1921年の論文(「国の指導者か、国民への犯罪者か」)において、「社会有機体の3分化」を「諸民族の正常な精神状態を破壊するユダヤ人の策謀」と罵倒していた。
1948年10月27日 マリー・シュタイナー(旧姓ジーフェルス)が他界。
1992年 日本アントロポゾフィー協会(東京)でも精神科学自由大学の活動(クラッセン・シュトゥンデ)が始まる[6]。
2000年5月 日本で「日本アントロポゾフィー人智学)協会」が設立される(2002年11月、NPO法人として認証を受ける[6])
日本への紹介

1925年から14年、ドイツ人哲学者フリッツ・カルシュが旧制松江高等学校(現島根大学)にて教鞭をとっていたが、その授業の中で人智学を教えている。彼はマールブルク大学在学中にゲーテアヌムでシュタイナーと直接会ったのをきっかけに人智学に傾倒しており、人智学に関して綴ったノートを妻エッメラ宛に送っている。また、長女メヒテルトは関連文献の英語訳者として活動、次女フリーデルンはマールブルクシュタイナー学校に通い、自由ヴァルドルフ学校でシュタイナー教育に従事、日本人親子を指導したとされる[7]。

1920年代には、シュタイナーの設計した「ゲーテアヌム」を現地で見て感激した早稲田大学の今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で知られるようになった。

1970年代頃から、娘の教育のため、家族でドイツに留学した早稲田大学教授の子安美知子が『ミュンヘンの小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告が反響を呼び、新しい教育方法としてシュタイナーの思想が注目された。

1980年代になって、哲学関係の出版社「イザラ書房」がシュタイナーの翻訳出版を始める。

1996年には、NHKNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」という番組でシュタイナー教育が紹介された。

また、イタ・ヴェークマン医師とシュタイナーが共同で創始したシュタイナー医学に関しては、2004年春から、日本でも「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催で医師向けの専門的な訓練が日本国内でも開始されている現状があり、2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」というものが設立されている。

2000年4月14日から8月27日には東京のワタリウム美術館で、2001年3月3日(土)~4月5日(木) にはKPOキリンプラザ大阪で, シュタイナーが書き留めたノートを展示する「ルドルフ・シュタイナー 100冊のノート展」が開催された。

評価

シュタイナーの存命時は1914年までにヨーロッパに広い範囲に支持者ができた。第一次世界大戦後にシュタイナーの名が大きく知られることになり評価する人が増えた[8]。
シュタイナーを評価した人々[編集]
ブルーノ・ワルター(ドイツ・ユダヤ系の高名な指揮者。晩年に普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)に入会した。キリスト者共同体にも関係していた。)
ヴィクトル・ウルマンチェコの作曲家、ユダヤ人だったためナチスアウシュヴィッツ強制収容所で命を落とした。)
ソール・ベロー(カナダ出身のアメリカのノーベル賞作家)
ヨゼフ・ボイス(ドイツの芸術家)
マイケル・チェーホフ(ロシアの名優。革命後アメリカに渡りユル・ブリンナーグレゴリー・ペックなどハリウッドの俳優を教育した。ロシア時代にシュタイナーの影響を強く受けている)
ミヒャエル・エンデシュタイナー学校に2年ほど通い、キリスト者共同体にも関係していた。シュタイナーから思想的に影響は受けているけれども、芸術に関してはシュタイナーとは意見を異にすると語った)
マリリン・モンロー(シュタイナーの著作を愛読していた)
前田日明(プロレスラー。シュタイナーの著作の愛読者)
今井兼次(建築家。シュタイナーの設計したゲーテアヌムに感動し、シュタイナーを日本で初めて紹介)
笠井叡(日本の舞踏家・オイリュトミスト。シュタイナー学校に留学し、帰国後、ワークショップや翻訳などオイリュトミーおよびシュタイナー思想の普及活動に従事する。息子も人智学関係である。)
江原啓之スピリチュアルカウンセラー。シュタイナーのようにスピリチュアリズムをアカデミックな思想として確立させたいとしている。)
雁屋哲(漫画『美味しんぼ』の原作者。子どもたちをシドニーシュタイナー学校に通わせた)
シュタイナーの思想に対する批判

ルドルフ・シュタイナーのラジカルな業績は、その存命時から既に多くの議論を巻き起こした。主な批判としては、大学の学識経験者たちが認めない、「人智学の科学性」の宣言、教会関係者が非難する「キリスト論のグノーシス主義的な諸前提」、並びに「人種差別的」とみなされたシュタイナーの民族論である。しかしながらシュタイナーの思想は、カルマの法則により同じ民族の元には再び生まれてこない「生まれ変わりの思想」を前提としており、その思想を全くもたない一般社会においては、これが常に大きな誤解のもととなっている。シュタイナーは本当のオカルティズム(神秘学、霊学)の実現のためには、民族を超えた生まれ変わりを前提としているので、「自分の属している民族という殻から脱しなければならない。」、「一つの民族だけに役立つような霊性を持ってはならない。」「人間は輪廻転生をとおして、さまざまな人種に受肉していきます。ですから、仮にだれかが『ヨーロッパ人は黒人や黄色人種よりも優れている』と異議を唱えようとも、実際は、そのようなハンディキャップは大きな意味で全く存在しないのです。」と述べている。

シュタイナーの霊的な能力を生前から敵視していたのは、アドルフ・ヒトラーと、彼と1919年に出会って以来、彼の精神的指導者でもありトゥーレ協会の中心人物でもあったディートリヒ・エッカート(エックハルト)であった。エッカートは「シュタイナーの霊的洞察力の前にあっては、何事も隠しおおせるものではない。彼とその入門者たちは、我が『卜ゥーレ協会』の性質に異を唱え、我らの会合や入門儀式の全てを霊的地点から監視している……」とし、ヒトラーナチス結成時の党大会で、「我々はシュタイナーとその追随者を許してはならない!なぜなら彼は、シュリーフェン作戦、ひいては第一次世界大戦におけるドイツ敗北の直接の戦犯だからである。」と、シュタイナーをあからさまに批判した。第1ゲーテアヌムを放火したのもナチの関係者ではないかという情報があるが、事件の解明には至っていない[12]。一方、シュタイナーも彼らの台頭を危険視しており、彼らがまだ無名だった1923年に起こしたミュンヘン一揆の時には、「もし、この組織が今後、大きな勢力を奮うことになれば、それは中部ヨーロッパに大きな不幸をもたらすでしょう。」と評していた