霊界大師 眞魚.らすかる国王MAO の26世紀先の未来まで残す。TIME CAPSULE BLOG2011年~

26世紀先の未来まで残す~『タイムカプセル BLOG』これが、僕の人生を懸けた霊能力の活用法です。

アメリカ連合国と黒人解放のリンカーンはインディアンを弾圧していた。実は明確な黒人解放を公言していないらしい北部の保身として演説した内容の一部。南北戦争のおさらい。


ゆっくりが語る滅亡国家・失敗国家「アメリカ連合国」

インディアンを弾圧していた。
さらに、明確な黒人解放を公言していないらしい。
実は、北部の保身として演説した内容の一部。
南北戦争のおさらい。
トランプ大統領が恐れる、
ディープステートの根幹的背景。


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1861年2月に結成されたアメリカ南部諸州の連合国家アメリカ合衆国から分離し、北部とのあいだで南北戦争となる。大統領はジェファソン=デヴィス。65年4月、敗れて消滅した。

 南部連合アメリカ諸州連合ともいう。Confedelate States of America で略称CSA。1861年に始まった南北戦争で、アメリカ合衆国と戦ったアメリカ南部の諸州が結成した国家である。南部の綿花プランテーション地帯の大プランター(農園主)の支持を受け、黒人奴隷制維持拡大、自由貿易主義(綿花のイギリスへの輸出拡大)、反連邦主義(=州権主義。北部主体の連邦主義に反対)などが共通する理念であった。
 前年の11月、奴隷制拡大反対を掲げる共和党のリンカンの当選のしらせは、サウス・カロライナの合衆国離脱への合図となった。12月、合衆国離脱を決するための州大会が開かれ、満場一致で脱退を決定した。サウスカロライナミシシッピ、フロリダ、アラバマジョージアルイジアナ、テキサス(脱退順)の各州が同調した。61年2月、アラバマ州のモントゴメリで会合した7州の代表は、「アメリカ諸州連合」の組織を結成した。ミシシッピプランターとして、合衆国の公務に従事して令名のあった民主党員ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。  アメリカ連合国 南軍旗
アメリカ連合国の南軍旗 1861年4月、南北戦争が勃発、その後ヴァージニア、アーカンソーテネシーノースカロライナ4州が加わり、アメリカ連合国は11の州で構成されることになった。首都は当初はアラバマ州のモントゴメリに置かれていたが、間もなくヴァージニア州リッチモンドに移された。
 右はアメリカ連合国陸軍が使用した南軍旗。アメリカ連合国は最初、左上に青地に★を7つ(最初に南部連合に加入した7州)で円を描き、赤字に白の横棒一本の国旗を制定したが、合衆国の星条旗と紛らわしいので、陸軍が使っていたこの旗を一部に採り入れ、白地一色(白人支配を意味する?)の左上に陸軍旗を置いたものを国旗とした。その後も多少の変化がある。海軍は横長のものを使用した。星の数は最初は7つで、加盟州が増える度に★も増やし、最終的に13になった。南部連合は実質は11州であったが、ミズーリとケンタッキーにも南部加盟を主張する勢力があったため、その二つを加えて13とした。驚くべき事に、アメリカの南部諸州では2000年ごろまでこの旗を役所に掲げていたという。
南部の勝算と誤算

 南部諸州は、北部が分離を認めるだろうこと、認めないときに戦争になっても勝てる、と考えた。それは、イギリスが紡績工業の原料としての綿花を必要としたから南部を応援し、フランスのナポレオン3世もプランテーション貴族に好意を寄せている、と思っていたからである。<ビーアド『新編アメリカ合衆国史』p.269>
 その見通しの通り、イギリス・フランスの支援を受けて、南部(アメリカ連合国)軍は騎馬技術に優れた南部の白人入植者を主体に編成され、アメリカ陸軍有数の有能な将官であったリー将軍の活躍もあって優勢に戦いを進めた。しかし、工業生産力に勝る北部も屈せず、戦闘は長期化した。リンカンは奴隷制については当初は「拡大反対」の立場にとどまっていたが、1863年1月に奴隷解放宣言を発し、奴隷解放を戦争目的に掲げると、国際世論も北部支持に傾き、さらにリンカンが前年1月に出したホームステッド法によって西部の農民の支持を受けるようになったこともあって、情勢は逆転し、63年7月のゲティスバーグの戦いで南軍が敗れ、65年4月に首都リッチモンドが陥落してリー将軍が降伏して南軍の敗北に終わった。大統領と閣僚、議会は逃亡したが、ジェファソン=デヴィスは途中で捕らえられ、投獄された。



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1861~65年、アメリカ合衆国が南北に分かれて戦った戦争。主な争点は黒人奴隷制度の存続をめぐってであったが、産業構造の違い、連邦制の性格などをめぐる対立もあった。4年にわたる激戦の結果、北軍が勝利し、南部の分離は実現せず、アメリカは統一国家として存続し、19世紀後半に工業化を軸とした大国として成長する基盤が築かれた。

 1861年に起こったアメリカ合衆国(USA)とそこから分離したアメリカ連合国(CSA)と間の戦争。アメリカを北部と南部に分断した内戦であるが形式的には二国間の戦争であった。アメリカ史ではthe Civil War(内乱の意味)と言われる。建国以来の南部と北部の地域的性格の違いに、黒人奴隷制問題が加わり、西漸運動で西部に新しい州が出来るに従い、自由州と奴隷州のいずれにするか、ぬきさしならぬ対立に至った。4年にわたる戦闘の結果、北部が勝利したことによって、産業資本を中心とした近代国家としての統一は保たれ、また奴隷制廃止によって市民社会としての体裁が整えられた。しかし、南北の対立、黒人差別問題はその後もアメリカ合衆国の抱える最大の問題として継承されることとなる。
アメリカの南北対立

 アメリカ合衆国は、独立以来、その領土を西部に広げるとともに、次第に北部と南部の基幹産業のありかたの違いからくる主張の対立が次第に明確になっていった。アメリカの南北対立は、次のように要約することができる。
・地域と人口 南部:11州 人口 白人550万人・黒人350万人の900万。北部(境界州含む):23州 人口2200万人。
・産業 南部:奴隷制綿花プランテーションを中心とした農業地域。北部:商工業を中心に発展。
・政治体制 南部:連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦派に近い。北部:連邦政府の権限を拡大し統一を強める連邦派にちかい。
・貿易政策 南部:主産物の綿花の輸出を増やすため自由貿易を主張。北部:イギリス製工業製品と競争するため保護貿易を主張。
・黒人奴隷制 南部:綿花プランテーションを維持するためには奴隷制は必要と主張。北部:奴隷制拡大に反対し、労働力・購買力として期待。
黒人奴隷制をめぐる対立

 連邦議会においては、黒人奴隷制をめぐる対立が当初から激しかった。特に領土が西部に拡大して新しい州が成立したとき、自由州にするか奴隷制にするかで対立が深まった。1820年には妥協点としてミズーリ協定が成立、北緯36度30分以北には新たな奴隷州は造らないことが取り決められた。しかし、アメリカ=メキシコ戦争によって獲得されたカリフォルニアが自由州となると、南部は対抗して逃亡奴隷法を制定させ、黒人の解放運動を厳しく取り締まろうとした。そのころ『アンクル=トムの小屋』が発表されて、北部では奴隷制に批判が強まったが、南部を基盤とした民主党が運動して、1854年にカンザスネブラスカ法を成立させ、奴隷州か自由州かの選択を住民に任せると事とし、ミズーリ協定を廃棄に追いこんだ。このことに反発した北部には共和党が結成され、両者の対立は次第に緊迫していった。さらに最高裁のドレッド=スコット判決がミズーリ協定を憲法違反とする判決が出たことは奴隷制反対派の憤激を買い、ジョン=ブラウンの蜂起などが起こった。
リンカンの当選と南部の分離

 1860年の大統領選挙で奴隷制度拡大反対を掲げる共和党のリンカンが当選すると、南部諸州の反発が強まり、12月に連邦離脱を決定した。翌1861年、リンカンが大統領に就任、それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国を成立させ、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していた。
南北戦争開戦時のでの対立
・北部の連邦諸州(自由州) メイン、ニューハンプシャー、ヴァーモント、マサチューセッツロードアイランドコネティカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、オハイオ、ミシガン、インディアナイリノイウィスコンシンアイオワミネソタ、カンサス、オレゴン、カリフォルニア
・南部のアメリカ連合国加盟(奴隷州) サウスカロライナミシシッピー、フロリダ、アラバマジョージアルイジアナ、テキサス、ヴァージニア、ノースカロライナテネシーアーカンソー
・境界州 奴隷州であったが北部との結びつきが強く、中立策をとった、デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリ、ウェストヴァージニア(1861年にヴァージニアから分離、63年に州昇格)
戦争の経過

 1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃して戦争が始まる。はじめは、騎馬の戦闘力に長ける南部人を組織し、リー将軍などの有能な指揮官がいたので南軍が軍事的に優勢であり、イギリス・フランスも南軍に肩入れし、北軍は押されていた。戦争は合衆国からの分離をめざす南部諸州と、連邦国家としての統一を維持しようという北部リンカン政権の戦いとして始まったが、リンカン大統領にとって大義ある戦争目的に欠けるところがあり、イギリスやフランスが南部を支持する動きがあることが懸念材料であった。
戦争目的の転換  1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫った。さらに、翌63年1月に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示した。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換した。また、62年にはホームステッド法を施行して西部の農民の支持を受けて、さらに北部工業地帯の経済力を生かして次第を挽回し、1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝、最後は北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落して戦争は終結した。
南北戦争の死者

 南北戦争は1861年4月に始まり、65年4月まで4年間続き、その間、大きな戦闘が約50回、小さな戦闘は無数にあった。両軍併せて61万8千人、北軍は36万人、南軍が25万8千人の戦死者であった。62万に近い死者の数は、第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万と比べてあまりも大きい。アメリカが体験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者の数であった。<猿谷要『物語アメリカ史』p.99>
戦争の意義

 建国以来の南北の地域的対立、連邦政府に対する州の独立性の強さ、などの国家としての弱点から起こった戦争であったが、それが北部の勝利という形によって克服されたことによって、何よりもアメリカ合衆国の統一が維持強化されたこと、また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされたが、現実には新たな黒人差別問題の出発点ともなった。いずれにせよ、南北戦争アメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点であった。南北戦争アメリカ合衆国が、19世紀末から20世紀にかけて世界に大きな存在となっていく。
(引用)南北戦争は、アメリカ史上最大の犠牲をもたらした戦争であった。また、中国での太平天国の乱(1851~64)と並んで、19世紀最大の戦争であった。・・・アメリカが分裂の危機に陥ったこの戦争を乗り越えて、ようやく本格的な国民意識が芽生えた。この戦争以前は、アメリカ人も外国人も、この国を「The United States are ....」と複数形で呼んでいたという。戦後は、これが単数形になるのである。以後、1960年代に国家としてのアイデンティティーが大きく動揺するまで、アメリカ史は1世紀にわたってナショナリズムの時代を過ごした。いわば思春期である。<村田晃嗣アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.62-63>

 奴隷解放宣言に続き、1865年に議会で憲法修正第13条が成立して黒人奴隷制の廃止が確定した。南北戦争北軍が勝利した直後にリンカンは暗殺されたが、戦後は共和党に主導された議会は南部諸州に対し、連邦軍を駐留させ、南部諸州の「再建」の条件として奴隷制廃止の憲法修正の批准をせまり、それに従って次々と南部諸州の復帰が実現した。その過程で、憲法修正第14条では黒人の市民権が承認され、さらに憲法修正第15条で黒人投票権が承認された。
戦後の黒人差別 しかし、解放された黒人は経済的に自立することは困難であったため、シェアクロッパー(小作人)という状態に置かれ、貧困が続くこととなり、平等な世界を一気に実現することはできず、黒人差別は根強く残るりクー=クラックス=クランによる迫害も頻繁に起こった。1877年に連邦軍の南部からの撤退を機に、南部諸州では事実上黒人投票権は制限され、黒人取締法が制定され、黒人は自由ではあるが社会的には差別されたジム=クロウと呼ばれるようになり、1896年には最高裁判所が黒人分離政策は合法であると判定されるに至る。このような黒人差別が法的に改称されるのは、南北戦争から約百年後の1964年に公民権法が成立するまで待たなければならなかった。また、2008年はオバマが黒人として初めて大統領に選出されるまでに至ったが、現代もなお人種問題はアメリカ合衆国の深刻な病巣となっている。
南北戦争と世界

 フランスのナポレオン3世が、南北戦争の勃発に乗じて、メキシコに出兵した。メキシコではフアレスを中心とした自由主義者による抵抗が強く、ナポレオン3世の野望はくじかれ、それをきっかけに第三帝政は下り坂となり1870年の普仏戦争で崩壊する。
 そのころイタリアではイタリア統一の動きが進み、1861年、ヴットリオ=エマニュエレ2世を国王とするイタリア王国が成立した。同じ年、ロシアでは農奴解放令が出されている。
 南北戦争はアジアにも影響を及ぼしている。南北戦争アメリカの綿花輸出がストップしたため、インドのイギリス向け綿花生産は急増した。清では前年にアロー戦争が終わり、太平天国の乱が続くなかで西太后がクーデタで権力を握った。1853年、日本の開国を主導したアメリカだったが、南北戦争のため、いったんアジアから後退し、代わってイギリスの日本への進出が強まる。日本は開国後の輸出超過が物価高騰を招き、攘夷事件がさかんに起こって幕末の混乱が深刻化していった。



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先住民族迫害史   

1600年代当初、ニューヨークはすでに10数ヶ国の人種が集まり、人種のるつぼと化していた。オランダが東インド会社を設立、各国の人々を雇った。イギリス人が米国に足を踏み入れる前の話である。 当時、先住民族東海岸一帯に住み着き、ニューヨークの反対側、今のニュージャージー側に生息していた。イギリス人たちの前はオランダ人 VS 先住民族の戦いがあったのだ。当時の記録で、オランダ人の商人達は仕事の合間にニュージャージー側に住むやさしいインディアン達を狩り、おもしろ半分に殺し、首をフェンスの上に飾っておくのがステータスであった。ある日、貴婦人が家から出ると風が吹き、切断された首が足元に転がってくるのを見て「まあ汚らわしい!」と足蹴にしたというシーンがニューヨーク歴史資料館に残されている。 1600~1700年にかけて、米国を植民地化するために先住民族はもっとも邪魔な存在だったのである。男性の先住民族は生きたまま頭の皮を剥がされた。我々が昔聞いたのと正反対の話しである。 植民地の法令に「先住民族の頭の皮を持ってきたものには報酬を出す」という信じられないものがあったが、我々も良く知っている英雄ジョージ・ワシントンアブラハム・リンカーントーマス・ジェファーソン等も、引き続き承認のサインを行なっている。とにかく自分達の植民地を広げる為に、インディアンは邪魔な存在、どんどん殺して行け行けムードだったらしい。   アンドリュー・ジャクソン(1820年)においてはさらにハードコア。当時のシャイアン族は5つの族に分かれ、代表議会制度の政府があったし、教育やファッションも発達していた。そういった発達している先住民族は目の上のタンコブだったのだ……ジャクソン大統領はバージニアにいたシャイアン族をオクラホマまで徒歩で「死の行進」を行なわせる。それでも死なないシャイアン人に対し、ジャクソンは天然痘菌のついたシーツや毛布をプレゼントする。いわゆるジェノサイド“民族大虐殺”というヒットラーの殺した600万人のユダヤ人、イスラム教徒対ギリシャ政教のボスニア大虐殺等と変らない民族大虐殺が起きたのだ。 当時弓矢に対して連発銃、やぶさめに対して単発銃、残念ながら先住民族に最初から勝ち目はなかった。先住民族の一部族チャロキーは居住地ミシシッピーからオクラホマに冬季の移住を強制され、1万2千人の4分の1が途中で倒れたという。 追いやられた30万人の先住民族は追われ追われて、西の方へと逃げる。ユタのあたりまで来て、こんな不毛の地ならもう大丈夫だろうと安心し、定住の地を築こうとするが、今度はゴールドラッシュがはじまった。   時に1848年、まだオレゴン州全部合わせても人口1万人しかいなかった時代、カリフォルニア州コロナの町で、材木屋の裏の小川で光るものが見つかった。 「金だ!」 あっと言う間にニュースは世界中に広がった。当時東海岸から西海岸に来るルートは3つ。1つは南米大陸回りの船。パナマ運河はなかったので6ヶ月かかる。2番目は船で中南米ニカラグアまで行き、そこから反対まで馬車をチャーター、そして船でカリフォルニアまで北上、これが最短で3ヶ月。3番目は大陸横断で6ヶ月から8ヶ月、オレゴン・トレイルや、サンタフェ・トレイル伝いにやってくるのだ。 1番と2番はお金がかかる。庶民に一番手頃なのは大陸横断だった。しかし、野蛮な当時、山賊や馬賊に襲われる確立が高く、かなり危険な賭けだったそうである。カリフォルニアには1848年から1849年にかけてアメリカ全土から人々が集まってくる。1949年には人口が1万人から一気に10倍の10万人に膨れ上がる。東の産業家(ならず者)達がこぞって鉄道を作り、南北戦争後、すぐに大陸横断鉄道が完成。インディアン達がやっとの事で生活を立て直していた不毛の大地に、白人達がまた土足で入り込んできた。 産業家達が料理人として連れてきたコックやハンターが先住民族が大事にしている野生の動物をメッタ切りにした。温厚な先住民族もついに切れ、1860~1880年にかけて大きな戦争が起きた。ミネソタ周辺ではスー族の戦い、コロラド周辺ではシャイアン族の戦い、アリゾナではアパッチ族の戦いが起きた。アパッチの戦いは映画「ジェロニモ」にて描かれているが、必死の抗争に出るのである。





災害時はご覧ください。


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北海道地震でインフラが麻痺した恐さを知った中で、
インフラに関する連絡先等を
今後も記事に載せておきます。
最悪・・皆さんは自力で調べるとは思いますが、念の為に・・
このまま、インフラに関するホームページや連絡先を載せておきます。

電気・ガス・水道・航空会社・列車・道内のバス会社・高速道路に関する
会社のホームページと電話番号を出来るだけ!!まとめました。





でわでわ。



また、宜しくお願いします。
Have a nice day!!









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皆様へ・・
いつもいつも、、こんな話につきあって頂いて
有難うございますm(_ _)m
そして・・
ご観覧してくれる皆様もどうもです。
その中には、生きている人達だけではないこともあります。笑w
 

でわ・・
 
 ☆しりとりゲーム続行です!!笑
 ペテルギウス版
 


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最近結構、ここに居ます。笑



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