歴史に埋もれてはならない偉人・・
上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)
今回はこの方をご紹介します。
「遥か500年以上残る世界史 第三章」
上杉 鷹山(うえすぎ ようざん) / 上杉 治憲(うえすぎ はるのり、1751年9月9日 - 1822年4月2日)は、江戸時代中期の大名で、出羽国米沢藩の第9代藩主。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。
諱は初め勝興、後に治憲であるが、
藩主隠居後の号である鷹山の方が著名である。
人物・逸話1
ないのではないか?
という議論がありましたが、
という議論がありましたが、
米沢市の安部三十郎市長が、「言い伝えはあるが、映像記録や文書などの証拠がない」と述べていました。
その2日後にケネディ元大統領の長女で
駐日大使のキャロライン・ケネディ大使が、
元大統領が鷹山を尊敬していたことを明らかにしましたが、
トン氏の発言により公文書でも裏付けられることになります。
トン氏は文書の写しを大沼氏に渡すことも約束しています。
これで、間違いなく上杉鷹山は
これで、間違いなく上杉鷹山は
ケネディ元大統領が尊敬する偉人となりましたね。
以前から、この言葉は知っていましたが、実は続きがあって、
「成らぬは人の なさぬなりけり」で完結です。
「成らぬは人の なさぬなりけり」で完結です。
この言葉の意味は、
【やろうと思えば何でもできます。
【やろうと思えば何でもできます。
できないのはやろうと思わないからです。
やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです。】
という深い意味合いが含まれています。
やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです。】
という深い意味合いが含まれています。
最近では、損得勘定だけで行動する方が多いですが、
上杉鷹山の言葉をもう一度
じっくり考えたいところですね。
じっくり考えたいところですね。
改めて、ウィキペディア引用
人物・逸話2
鷹山による崇広堂の扁額頑健な体格ではなかったが、
元来頑丈で大病でも病床についたことはなかったようである。
上杉家へ養子入りする際、高鍋藩老臣で鷹山の傅役であった
上杉家へ養子入りする際、高鍋藩老臣で鷹山の傅役であった
三好善太夫重道より訓言を記した一書を手渡されているが、
鷹山は生涯これを机の近辺より離さず、
また鷹山の業績はこれに基づいているとされる。
また、酒はあまり飲まなかったが、薬用酒はときどき飲んだという。
有名な「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、
有名な「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。弗爲胡成(為さずんばなんぞ成らん、
『書経』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に
次期藩主に伝えられた。
「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき」 武田信玄(1521-1573)の名言を模範にしたもの。
伊勢津藩主・藤堂高兌は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂を設立した。これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。扁額裏には治憲の署名と文政4年(1821年)とある。
2007年に『讀賣新聞』が
伊勢津藩主・藤堂高兌は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校崇廣堂を設立した。これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。扁額裏には治憲の署名と文政4年(1821年)とある。
2007年に『讀賣新聞』が
日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも、
その例として、他の歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、
このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると、
鷹山が兼続を再評価したとされ、
鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた。
江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、
江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、
上杉家では隠居生活を米沢で送るのが慣例であった。
近年の研究では、治憲の30歳代での隠居は参勤交代を気にせずに
改革に専念する理由もあったからという考察がある。
なお、幕府は諸大名が隠居後に
領国に定住するのは好まないというのが建前であったが、
上杉家では常々、脚痛治療のための長期間の湯治の名目で
幕府老中に届出を出していた(幕閣もわかった上で許可を出している)。
藩主の称号は謙信以来の御屋形様であり、
藩主の称号は謙信以来の御屋形様であり、
隠居した先代は大殿様であった。
治憲は早くに隠居したため先代の重定が健在であり、
江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して
30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。
その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、
実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。
翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、
一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。
家系
日向高鍋藩主・秋月種美の次男で、
10歳で米沢藩の第8代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男で、
春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。
兄弟のうち、兄の秋月種茂は高鍋藩主を継いだ。
弟のうちで他に大名となった者に人吉藩主・相良晃長がおり、治憲と同様に幼くして相良家に養子に入ったものの、早世した。
正室は重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)。
側室のお豊の方(綱憲の六男・勝延の娘で、
重定や春姫の従妹にあたる)との間に
長男・顕孝(第10代藩主・治広の世子)と
次男・寛之助(満1歳半(数え2歳)で夭折)の2人の子がいる。
上杉家において女系の血統に基づく相続は
ただし、重定は治憲を養子に迎えた年から10年余りの間(その間に家督を治憲に譲って隠居した)に勝熙、勝意、勝定、定興の4人の
男子(治憲の又従弟にあたる)を儲けており、
次男の勝意(治広)が治憲の跡を継いで第10代藩主となった。
また、重定の男子が生まれる以前にも上杉家に男子がいなかったわけではなく、綱憲の四男・勝周に始まる支藩(支侯)米沢新田藩の分家もあり、勝周の息子(重定の従弟にあたる)の勝承(第2代藩主)や勝職(旗本金田正矩となる)がいた。勝承は重定の養子の候補にもなっていた。
生涯
寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。幼名は松三郎。実母が早くに亡くなったことから一時、祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育された。宝暦9年(1759年)、この時点でまだ男子のなかった重定に、我が孫ながらなかなかに賢いと、幸姫の婿養子として縁組を勧めたのが瑞耀院である。
宝暦10年(1760年)、米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り、直松に改名する。宝暦13年(1763年)より尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、明和3年(1766年)に元服、勝興(かつおき、通称:直丸)と称す。また、世子附役は香坂帯刀と蓼沼平太が勤める。江戸幕府第10代将軍・徳川家治の偏諱を授かり、治憲と改名する。明和4年(1767年)に家督を継ぐ。
上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら初代藩主・景勝の意向に縛られ、会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、家臣も上杉家へ仕えることを誇りとして離れず、このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かった。そのため、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていた。
深刻な財政難は江戸の町人にも知られており、
「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。
「新品の金物の金気を抜くにはどうすればいい? 「上杉」と書いた紙を金物に貼れば良い。
さすれば金気は上杉と書いた紙が勝手に吸い取ってくれる」
といった洒落巷談が流行っていたほどである。
といった洒落巷談が流行っていたほどである。
加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、
宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃した。
名家の誇りを重んずるゆえ、
豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、
藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。
新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。また、それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。ところが、そのため幕臣への運動費が捻出できず、その結果1769年(明和6年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じて再生は遅れた。
自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。
安永2年6月27日(1773年8月15日)、改革に反対する藩の重役が、
改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴し、
七家騒動が勃発したが、これを退けた。
これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、
次々代の斉定時代に借債を完済した。
隠居すると初めは重定隠居所の偕楽館に、
後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移る。
白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。
文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した。享年72(満70歳没)。
初め、上杉神社に藩祖・謙信と共に祭神として祀られたが、
明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至る。
官歴
明和3年(1766年)7月18日 - 従四位下に叙せられ弾正大弼に任官。
明和4年(1767年)4月24日 - 家督相続。同年12月16日侍従を兼任する。
天明5年(1785年)2月7日 - 隠居。同年同月11日越前守に遷任。
明和4年(1767年)4月24日 - 家督相続。同年12月16日侍従を兼任する。
天明5年(1785年)2月7日 - 隠居。同年同月11日越前守に遷任。
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私個人的に言えることは、
根源・本質・真意という、原点にして頂点を
どのような立場や境遇でも見失わない、
鷹山さんの生き様に感銘を受けまして、
この方を、「遥か500年以上残る世界史 第三章」へと
刻ませて頂きました。
以上です。
また、宜しくお願いします。
Have a nice day!!
☆★☆★☆☆★☆★☆☆
皆様へ・・
いつもいつも、、こんな話につきあって頂いて
有難うございますm(_ _)m
そして・・
ご観覧してくれる皆様もどうもです。
その中には、生きている人達だけではないこともあります。笑w
でわ・・
☆しりとりゲーム続行です!!笑
ペテルギウス版
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